仮文芸

現代邦画とSFの感想

『さよなら歌舞伎町』(2015)

勤務先のラブホでAVのロケがある。ピザを届けにいった部屋でメイク中だったのは妹だった。その晩、大森南朋枕営業の女を連れてきた。同棲相手の前田敦子だった。


偶然を濫用してはばからないこの蛮力は何事であろうか。しかも染谷将太がAVに身売りした妹を詰めると、彼女は高座に上がったかの如く、身の上人情噺をスラスラとやり始める。家出娘をデリヘルに沈めようとラブホに連れ込んだスカウトの男は娘の人情噺にほだされてしまう。


不条理の最たるはデリヘル嬢を襲う男の件である。ケツ持ちに殴打された男は血まみれにながらとつぜん「チラシ配りが」と言い出して高座に上がる。何が起こったのかしばらくわからなかった。叙体はリアリズムなのである。しかし身の上を説明する台詞だけは劇画調になり芝居が舞台臭くなる。リアリズムが方々で水漏れしている。


AVロケと枕営業の偶然がマンガであれば、人情噺の内容も記号表現の域を出ない劇画である。男を津波に流された女はAVに流れ着く。再婚した母は子どもができると連れ子を虐待する。チラシ配りを強いられた管理職の男は自棄を起こして嬢にキメセクを迫る。これらの事情は一切が台詞で朗々と説明される。


しかしながらマンガのよさも否定できない。リアリズムの叙体が基調にあるから、ケツ持ちが救援に駆け付ける劇画が引き立つ。


偶然と恣意で事件をマンガ化しようとするのは出来事を秤量したい欲望である。これが裏目に出れば、噺家のように不気味なほど理知的な身の上話の台詞回しになり、震災を不幸の記号として流用する不穏な割切りになるだろう。だが、デリヘル嬢のサルベージにタイムフレームを設定し活劇にしたのも秤量の作用だろう。逃亡犯の南果歩は時効を目前にして警察官の不倫現場に遭遇する。スカウトの男は足抜けすべく家出娘を残して部屋を出る。文無しの娘を警察に突き出すべきか染谷は判断を迫られる。男は間に合うのか。タイムフレームを仕込む手際でマンガは正当性を得るのだ。


不幸を呼ぶラブホの偶然の磁場も賤業者の連帯文学に発展する。デリヘル店長が例によって高座口調で身の上話を始めると、キャストの女の子たちが集まってきてマンションの一室がポカポカしてくる。


偶然の磁場とタイムフレームを統合するのは、デリヘル引退日を迎えた、いかにも荒井脚本に出てきそうな聖女である。家出娘がサルベージされた幸福の余韻が聖女の件に不穏な予兆をもたらす。このまま何事もなく一日が終わってほしいが、尺はまだ存分に残っている。果たして何かが起こるのである。この感じは『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の マーゴット・ロビーに少し似ている。


染谷と前田敦子の件では不幸と不幸がぶつかって感情の凪が訪れる。女はラブホ店長に落ちぶれた男に、男は枕営業に手を染めた女に、それぞれ愛想が尽きようとする。これを救うのは大森南朋である。事後の前田を労わる老練な手管が枕営業を相対化し、男との関係はまだ終わりにできないと女に思わせる。


力を失った不幸の凪は夜勤明けの倦怠に翻案される。前田の青白い貧相は今や薄幸そのものと化し、男への未練と男の失意に衝迫を伴わせる。男を恋しく求める叫びが不幸のマンガのような物量を質へと凝集する。