『首』(2023)

プルタルコスにはギリシア少年愛が理解しがたかったのだろう。対比列伝には違和感を抱えながらもそれを強いて理解しようとする痕跡が方々に見受けられる。ローマの時代には良家の子弟は固くガードされ、少年愛は専ら奴隷を対象とした。少年愛にとどまらず、古代人の倫理観全般にズレを覚えながら、あくまでそれを肯じようとする筆致が、対比列伝にたとえようのないヒューモアをもたらしている。


『御法度』(1999)を思い起こしてもいい。衆道がわからない現代人には、衆道が組織を破綻させる現象に理解が及ばない。映画はこれを笑いとして解釈して特殊な感情の普遍化を試みている。


『首』の秀吉は登壇早々に自分には衆道がわからないと宣言する。彼を「安全地帯」に逃すのは階級差である。百姓出身の秀吉には武家社会に嗜みがわからない。


この設定は秀吉には両刃になるだろう。組織を動かすのは衆道感情である。衆道がわからなければ組織は動かせない。秀吉は官兵衛の神輿として道化的に描かれている。組織人としての労力の大半は官兵衛の筋書きを演じるために費やされる。秀長は専らプロンプターとして機能する。衆道はむしろ、把握しがたい組織の有様を表現するために利用されている。


百姓出だから衆道がわからならない。衆道≒組織がわからないから神輿に乗るしかない。これは芸人というアウトカーストの自虐だろう。北野映画が好んでヤクザを題材にするのは、ヤクザも芸人も個人事業者だからだ。組織人の謎に満ちた生態は実話誌ベースでかろうじて把握される。


『首』で組織人といえるのは家康・光秀・官兵衛である。


官兵衛に接すれば、全体像を知らないまま筋書きを演じようとする道化に自分を貶める。組織が動き出そうとすれば、官兵衛が実務の詳細を画面外に持っていく。光秀はゲイのブラックボックスに収めてしまう。


家康の件は異様である。影武者が無尽蔵に湧き出ては斃されるコントをやる。組織人のわからない生態を笑いで消化するのだが、笑いにしてはくどすぎる。組織が物量と解され、量を表現するために行為が反復するのである。


木村祐一獅童が活劇となるのは素朴な組織不信の裏返しである。彼らも個人事業者だから描けてしまえる。


家康のしつこい影武者コントの他にも『首』には構成上の不審がある。信長が退場すると秀吉に変調が来す。彼は神輿に自足を覚えなくなる。中国大返しのマラソンに費やされる尺がバランスを欠いて長く、秀吉は神輿たる自分に疲労し、やる気を失い始める。信長の抱えるコンプレックスがその退場によって秀吉に憑依する。二人に共通するのは実務家への引け目である。信長が光秀を愛憎する所以である。


信長役の加瀬は現代人だから衆道がわからない。加瀬信長は衆道愛をカニバリズムと混線させ、組織を把握しようとする。血に濡れた遠藤憲一の口唇にむしゃぶりつき、果ては弥助の背中を食いちぎってしまう。


作中で最も不可解なのは荒川良々の配役だろう。なぜ清水宗治なのか。異様なキャスティングに呼応して秀吉の情調もいよいよおかしくなってくる。


切腹を前にして船上で誓願寺を舞う良々。まずこれをどう受け取っていいのかわからない。笑いなのか? 秀吉は別の意味で良々の行為が理解できず、早く切れと癇癪を起こす。


何かがおかしい。


『首』のシニカルな笑いのベースにあるのは死生観の軽さである。この価値観は劇中人物全員に共有されている。誰も戦乱の世を憂いたりはしない。ところが良々の死生観の重さに対峙すると、秀吉は批評的になる。現代人の価値観で中世人の死生観を批評し始め、大仰さを嗤う。


良々は現代と中世の時代感覚を混在させる境界的人物である。シニシズムは今や苛立ちに変わっている。良々の死生観を理解できない自分の野卑が疎ましい。現代の価値観に憑依され、秀吉の苛立ちが作者の負い目に同期して裏打ちされる。


冷笑は越えられた。祝祭的な狂気の余韻が突然の幕切れの後に残った。