パオロ・バチガルピ 『ねじまき少女』

ねじまき少女(上)工場で使役する遺伝子改良ゾウが暴走して処分される。ホク・セン(中国系マレー人)が北米人の上司アンダースンの挙動を観察評価する体裁で事件の後始末が叙されていく。


ホク・センはアンダースンを洋鬼子扱いしている。マンダリンを解さない北米人の目前で、この醜い生き物が云々と中国系医師と会話し上司への鬱憤を晴らす。


ホク・センの憎悪に違和感はない。知財窃盗を試みている彼には経営者のアンダースンが邪魔である。辛辣な批評になるのは納得がいく。


しかし次第に彼がわからなくなってくる。暴走ゾウから危うく難を逃れた上司の運を讃えつつ「たいへんな幸運に感謝して、観音さまと布袋さまにお供えをなさい」とやる。


ホク・セン視点のパートである。受け手が彼との同化を求められる文脈であるから、この台詞は際どくなる。「お供え」は本書が想定する読者層には欠いている価値観だろう。異教徒に信仰を推すのもいただけない。


アンダースンはホク・センの「お供え」をキモがっている。それをわかったうえで、あえてキモがられる仕草に出たとすれば、「お供えしなさい」は手の込んだ嫌がらせに取れる。アンダースンはそれを文化相対感覚の欠如した未啓蒙な仕草と見るだろう。未啓蒙人なりの好意として取られるのなら保身と嫌がらせは両立する。ホク・センが自分を相対化できなければ、この方策は出てこないから、受け手にはホク・センの視点を共有することに違和感はない。


しかしホク・センは読者との共犯関係を崩しにかかる。


今夜祝杯を上げようと上機嫌なアンダースンに「コンパニオンを手配しましょうか?」とやる。アンダースンはキモがる。この言動には文化相対の言い訳が通じ難く、ホク・センの昭和のモラルが駄々洩れになってしまう。リベラルな受け手には昭和的モラルとの共犯関係は受け入れがたい。にもかかわらず、ホク・セン視点で話は進み、文体が彼と同化するように迫ってくる。


アンダースンの反応を見て、リベラルの倫理コードに触れたと感づきホク・センは後悔する。が、直後にゾウの頭部をトロフィーにするよう薦めてしまい、アンダースンをやはりキモがらせる。


多くの受け手にはこの不快が理解できるだろう。ホク・センにはわからない。北米人のベースとしている価値観がわからない。ホク・センは内語する。洋鬼子はいま機嫌が良かったかと思うと、すぐに腹を立てる。こいつが外国の悪魔になったのは因果応報であり...。


ここでスタイルエラーが突発する。句読点で結ばれた次の文で突如、人称が変わる。


「...そんなやっといっしょに仕事をする羽目になったのはホク・センのカルマなのだ」


邦訳で議論するのは限界もあるのだが、「こいつが」といってるからホク・センの視点だと考えられる。だが「ホク・センのカルマなのだ」は三人称的であり作者の評価である。ホク・センの視点が脱落している。


「ホク・センのカルマなのだ」といっても作者自身がカルマを信じているわけではなく、ホク・センの価値に拠るならばそうなると評している。しかし、表面的にとれば作者もカルマを信じていると誤読も可能であり、視点はますます混濁する。


作者は異文化の思考に容赦がない。「お供えしろ」の相対感覚と自意識の欠如はホク・センをパターナルな人物に見せてしまう。彼にアンダースンへの私信を勝手に開封させ、所有概念の曖昧な氏族ベースの思考を露呈させる。異文化人の視点を導入するのなら文化相対的なフォローを入れるのがお約束だから、タイ人の輪廻感覚や中国系の祖先崇拝に対する散文的な描写が、アダム・スミスのスコッランド人評のように酷薄に見えてしまう。


事件は片付き、アンダースンは上機嫌で引き上げる。ストレスから解放されたホク・センは一転して洋鬼子を讃え始める。エネルギー枯渇後の地球は欧米のカロリー企業に支配されている。この現状について、洋鬼子は超自然な力に守られていると評し、洋鬼子である作者と受け手の優越感をくすぐる。イーガン的な間接自賛の仕草である。リベラルの感性は自賛を許さないから、周縁の人物に先進の文物を観測させて間接的に優越感を享受しようと試み、氏族社会の価値観をベースにした視点を要請した。異質な思考へのフォローは優越感の享受を妨げる。しかし異質な思考の温存は当該人物の内面を開示しない。この視点の混濁は、ねじまき少女という人造生物のフワフワした自意識を構成する何かでもある。