『スパイの妻』(2020)

 相変わらず変な映画なのである。蒼井優は古の女優演技を不気味なほど的確に形態模写する。高橋一生の9ミリ半フィルムもいかにも戦前のホームムービーだ。これだけ見れば『カメレオンマン』(1983)だが、蒼井の復古調を捉えるのは飽くまで現代テレビドラマの質感である。高橋一生東出昌大の芝居も現代邦画の域を出ない。蒼井の周辺だけ時間の流れ方が異なる。まるで幽霊のように。
 この映画は、9ミリ半が共通項になるようにCUREと構造が被っている。ただそのままの踏襲でもない。
 CUREでは主人公の内面から知らぬ間に受け手が追放される。オチで受け手はようやくその離間を知らされる。『スパイの妻』は逆である。基本的に蒼井優視点の話だが、ひとりだけ幽霊のような芝居をやるから彼女の視点と同化できない。
 サスペンスとしてこれは正しい。同調しづらい蒼井は高橋一生との同化を暗に受け手に促す。彼の言動を真に受けるよう仕向ける。高橋には受け手と蒼井を欺く企みがあり、蒼井のサイコ性は誤誘導を担うのだ。オチで蒼井が欺かれたと知れると、CUREとは反転した構図となる。受け手は蒼井とは同調できないようでいて、彼女に視点を包摂されていたのだった。
 ところが、後日談で包摂の意味合いが病化するのである。
 元々は、満州で731ネタを知った高橋がこれを国際世論に訴え、アメリカの参戦を促す話であった。しかしこの筋には難点がある。731ネタの有無は時局の趨勢に何の影響も及ぼさないように見える。劇中でもネタの顛末には何の言及もない。すべては無駄骨のようにされるから、この企てすら何かのフェイクに見えてくる。
 夫を国賊視する蒼井の難詰に対し、自分はコスモポリタンだと高橋は弁明した。蒼井も別の意味で世界主義者である。近代国家よりも性愛を優先した。しかし高橋もそうではないか。なぜ自らの死を偽装して身分を偽り敗戦後も蒼井の許に戻らず、別人として北米に身をくらますのか。すべてはサイコ蒼井を離縁するために画策されたのだ。メフィストフェレス笹野高史の入れ知恵で全容を知った蒼井は、癲狂院を破壊すべく爆撃を引き寄せ自由の身となり、高橋の許へと旅立つ。彼は妻の鬼神の如きサイコ性をまことに正しく把握していたのである。