イレギュラーであるのは、モノローグのかたちでホアキンとエマの内語がそれぞれ二人とも開示されている点で、さらに内語の内容も奇妙なのである。エマはホアキンを話題としている。ところがホアキンの方は殺人の話題で一杯で、エマがあまり出てこない。通常、内語の開示によって、話はその人の視点で展開されることになる。本作ではふたりの視点で出来事が観察されていて、少なくともエマの視点で事物が観測されている感じはする。しかしホアキンについていえば、内語があるにもかかわらず受け手と視点が共有されている感じが出てこない。これはなぜか。エマはホアキンを観察している。対して、ホアキンはホアキン自身を観察している。二人の視点が双方向ではなくホアキンの内面へ集約されるようになっている。これがホアキンの内面開示を視点と連接させない効果をもたらすように思う。
ホアキンの内面が叙述されてるにも関わらず彼の視点が解らない離人性は、後に明らかになる彼の属性の伏線であった。彼はサイコパスなので内面がダダ漏れになっても理解できるはずがなかった。たださらに輪をかけて事態をおかしくするのが、エマの天然の造形である。サイコ野郎ホアキンに接した彼女の反応も少し常人離れしている。最後の海辺で彼女はおセンチに回想している。おセンチに回顧するものとはとうてい思えない事件にだ。ラムゼイ・ルイスの能天気な劇伴も手伝って、価値観の準拠点が失われたような、耄碌でタガが外れてしまったような、そういう狂った陽気の中で幕が下りる。全く劇伴の入らないオープニングクレジットも不穏である。