『ハロー!?ゴースト』(2010) Hello Ghost

 困ったことに、ほぼ全編まことにおもしろくないのである。なぜその行為が必要なのか、明確にされないまま話だけは先に進んでしまう。しかし理由があるのだ。おもしろくしてはまずい事情がある。
 原案である Heart and Souls ('93) と比較してみよう。
 事故死した四人の男女がロバート・ダウニー・Jrに取り付いて守護霊化するのが原案の序盤である。四人はたまたま同じバスに乗り合わせて事故に遭った。ダウニーに取り付いたのも、たまたま近くに彼がいたからだ。幽霊たちとダウニーはそれぞれ偶然によって結びついた。
 本作の場合、それが必然になる。男と四人の幽体は出会うべくして出会っている。
 序盤以降も違いがある。ダウニー版では取り憑かれたダウニーは幽体の道具に徹しがちだ。ダウニーにも課題はないこともないが、幽体のほうがはるかに深刻である。彼らには未練があり、死んでも死にきれない。ダウニーは幽体たちが生前の借りを返すための手段となり、方々を引き回される。したがって、幽体らはどんな未練を残してきたのか冒頭で明瞭に説明される。未練解決の有様が物語の課題なのである。
 リメイクの本作はこれがない。どんな未練をのこしたか説明がない。代わりに取り憑かれた男の視点と課題に傾斜する。
 Heart and Souls は幽体たちの物語で始まり、ダウニー登場は後になる。『ハロー!?ゴースト』は取り憑かれた男の視点から始まる。自決に失敗した彼が病院で目を覚ますと幽霊に取り憑かれている。幽体は老人・中年・女性・子どもとダウニー版よりもはるかに多様だ。これには理由があるのだが、ともかく原案とは異なり幽体の視点に欠ける。あるのは憑かれた男の視点ばかりで、しかも彼の課題はダウニーと比べるとはるかに重い。男は孤児である。
 ダウニー版の序盤を本作は省略したといっていい。しかし幽体らの未練に取り組む中盤には準拠するのである。この構成の結果は致命的だ。幽体の出自に言及がないまま話だけは幽体の未練に取り組むのだから形だけにしかならない。
 ある幽体はカメラを探している。なぜカメラなのか詳細な情報開示がない。別の幽体は廃車のタクシーを探している。なぜなのかやはり明瞭でない。
 そもそもダウニー版のおしゃべりな幽体らに比して、本作の男女は一様に無口である。表情も謎めくばかりで記号の域を出ない。五里霧中のまま、それをフォローすべく劇伴や演者の所作だけが喜劇調に浮かれあがる。本来、海外公開できないような、ドメスティックな二級作品がビデオスルーで流通したあの感じである。水準が低いのである。
 そう思った時点で訝しむべきであり、見くびった時点で語り手の罠に落ちているのだが、ダウニー版をあらかじめ知っていることが引っ掛けとなっている。原作を知っていれば先は読めるはずだろう。ところが本作は原案を了解しているとかえって先が読めなくなる。幽体の事情が説明されなくとも、ダウニー版ですでに説明されているから不審が生じがたいのである。不都合はダウニー版の不器用なトレスと解されて合理化されてしまう。
 ダウニー版と本作の決定的な相違とはそもそも何か。隠すものがあるか否かである。ダウニー版には幽体の出自に隠すものがない。課題はどう解決するかである。
 リメイクはダウニー版の構成を倒置させる。ただし倒置したと受け手に感づかれてはならない。ダウニー版では幽体の出自が冒頭で明かされる。本作はそれをラストで暴露するからだ。しかしダウニー版に引きずられている受け手は開示が済んだつもりでいる。また、未練を解消する過程で中途半端に開示は行われるから、それで終わったつもりになる。土壇場で開示が始まるまで、プロットの倒置がわからないのである。どう解決するのか。それが問題ではなく幽体の出自が課題なのであり、それを開示しようとする話の目的すら秘匿されていたのである。


 プロットの倒置は、ダウニー版を改善する試みの過程で生じた方策だろう。幽体たちとダウニーを結びつけたのは偶然である。これを必然にしたい。なぜか。ダウニー版では偶然の関係ゆえにそれぞれの未練は独立していて関連がない。未練は拡散していて、未練の解決を試みれば人々はそれに応じて離散していく。
 リメイクの本作それを必然にする。幽体たちは理由あって一緒にいて事故を共にしている。四人と憑かれた男の関係も必然であり理由がある。未練ゆえに彼らは男に憑依したのである。未練は凝集してひとつしかなく、未練の正体を追えば幽体と男の間に強烈な連帯が生じる仕掛けである。
 ダウニー版を了承しているとこの必然に気が付かないのだ。幽体の出自はバラバラだろうと予断してしまうのだ。
 かくして最初に言及した不審は解ける。幽体の正体開示に物語の達成が設定されているゆえに、出自は曖昧にせねばならない。幽体におしゃべりをされたら困るのである。しかし、これはある種のカテゴリーエラーだろう。もともと隠し事を前提とせずに設計された物語に隠しごとを隠すような曲芸を収容したのだ。終盤を除くほぼ全編がそれこそ幽体のように掴みどころのない叙述に終始する訳である。


 本当の未練が判明して爆発するリリカルは、ダウニー版も内包していた感傷であるが、ごく軽い扱いで終わっていた。本作はそのリリカルを拡張することで、ダウニー版の問題点を一気に解決している。
 男は孤児である。これが彼の課題である。ところがそうではなかった。彼は気づいていなかったが、彼は失ったものにずっと寄り添われ救われていたのだった。