江戸時代の初期には耕作地は全て自作農に所有されていた。中期になり農村に地主層が勃興すると小作地への転換が始まり、江戸末期には2割が、1930年代には5割が小作地となり農村の貧窮化は進んでいった。近代のアンロックは幕藩体制下では不安定だった所有権を確定させるために地主層は明治維新の有力な支持母体となった。
江戸幕府が議会なしに行政を造営できたのは外国の脅威がなく軍隊整備のコストが不要だったからである。近代のアンロックには膨大な行政コストがかかる。明治国家は徴税のために議会を開設し所有権を保証された地主たちは近代化のコストを負担した。与野党ともに議席の過半は地主が占めた。
近代の進展とともに近代国家の行政コストは膨張し制限議会による徴税では賄いきれなくなる。より遍く徴税するために殊に人類初の総力戦以降、各国に普選議会が見られるようになった。小作農が有権者の列に加わり地主が議会の過半を占有できなくなった結果、小作民の貧窮による農村の荒廃が政治課題となった。
所有権を保証する近代国家は地主の土地を収用する方法で農地を解放できない。所有権に抵触せずに自作農を創造する方法として考えられたのは植民である。シュンペーターいわく、小作農を解放せずに普通選挙権をアンロックすると帝国主義が加速する。満州事変は普選施行から6年後のことである。
満州植民の当初の計画では取得価格を下げつつ現地住民との軋轢を避けるために入植用の土地は荒蕪地の開拓による取得が基本とされたが、現地小農の立ち退きで取得した土地はけっきょく入植予定地の8割弱に及んだ。これは既存耕作地の4分の1にあたる。
取得にあたっては価格操作が行われ耕作地が荒蕪地と偽って評価されたりした。取引の際には関東軍が兵士を派遣してプレッシャーをかけ極端なケースでは農民が契約を拒むと同意がなされるまで村は占拠された。立ち退いた農民にあてがわれる土地の多くは荒蕪地であり、入植者に土地を売ったら行く場所がないと訴える現地民の声を入植の先遣隊が聞いている。この情報は内地の入植希望者を尻込みさせるどころか逆に耕作地ならばうまくやれるとやる気にさせた。
入植者たちは自分たちが被ってきた境遇を今度は現地農民に強いる番となった。
労働集約型に慣れ親しんだ日本の農民には新たにあてがわれた広大な土地が手に余り、機械化に頼る代わりに労働集約型の現地農法に依存した。入植者だけでは人手が足りず、現地農民を小作として使役し自分たちは地主に納まった。日本で自分たちが搾取されたやり方がそのまま現地民に適用され入植者所有の7~9割が小作地に転じた。とうぜん入植民たちは後ろ暗くなる。
関東軍は現地住民の非武装化進める一方で入植民には武装を許可した。現地農民を見れば野盗じゃないかと疑心暗鬼になった入植者たちは、不審な現地住民を襲撃してしまう事件を度々起こし、これでは共産主義と抗日運動を加速させると警察当局に嘆かせた。満州に自作農の楽園を創出しようとした社会改良家たちの夢はここに潰えたのだった。