日本における局地市場圏の実際

大塚久雄著作集〈第11巻〉比較経済史の諸問題経済社会の成立 17‐18世紀 (日本経済史 1)近代成長の胎動 (日本経済史 2)


都市経営シミュのような荒蕪地に人を放り込むとする。西部の開拓地を想定してもよい。生活の必要に応じて肉屋、パン屋、靴屋などが現れ、建築の需要が増えれば大工の棟梁やレンガ工もやって来て、町が開かれるだろう。人々を強制せずに自由に行動させれば、バランスの取れた産業構造の備わった地域社会が誕生するはずだ。もし荒蕪地に単一の商品生産に特化した町がいきなり現れたとしたら、外部の不自然な力が介在したと見なせるだろう。


専業化の村は実際には中世欧州の至る所に存在した。各地の封建領主が農奴を駆使して、輸出向けの作物を生産した。封建制という外的規制が経済の自然な発展を妨げたのである。


大塚史学は地域内分業と地域間分業を厳密に区別する。


地域内分業の社会は自然な産業構造から成り立つ。各職業が過不足なく組み合わされ自給自足しているために、地域外と取引する必要が薄い。いいかえれば、地域間の流通が発展しない。


反対に地域が特定商品の生産に特化すると自給自足ができなくなる。地域間分業の社会は地域間で必需品のやり取りをする。


時代が下ると、地域内分業社会においても地域間の流通が生じる。経済が発展して生じた余剰生産物が他地域へ輸出される。市場が拡大すれば特定商品へ特化する地域も出てくるだろう。しかし地域内分業が発展して達せられた地域間分業と中世のそれには質的な違いがある。


19世紀初頭の摂河泉の農村では菜種の販売を農民が個別に行わず、村全体として一括して問屋に売り渡していた。農民が経済主体として自立しておらず市場から隔離されていた。


対して、地域内分業の地域では市場経済が農村内部に浸透する。定期市で農民と職人が生産物を売買し合って生活している。大塚史学はこの状況に近代の発祥を見る。農民が市場と接触しない地域間分業では、近代の心性が発揮される機会がない。


近代の揺籃たる地域内分業の社会が地球上に最初に現れたのは14世紀のイングランドである。日本で現れたのは19世紀初頭だと大塚はいうが、これは現在ではどの程度妥当する学説なのか。


17世紀日本の産業構造は中世欧州と似ている面もある。農村に非農業者は居住しない。商人・職人は城下町や郷町に居住し、町と農村は分業関係にあった。農工商分離という外部規制が働いた結果である。


18世紀に入ると農村に非農業者や副業を持つものが現れる。


信州佐久郡横根村では18世紀後半から農家以外の戸数が増加する。幕末には3分の1が農業以外、特に手工業に従事している。農村内部における市場取引は日常化し、城下町と農村を結んでいた郷町の定期市が休止することもあった。


14世紀イングランドを思わせる光景だが、地域内分業の発展と並行して地域間分業の深化も見られる。原料農産物や鉱産物の地域的な特化も進展し、郷町の中には農村工業の集荷地として新たな展開を見せるものも出てくる。


このような地域間流通の発展は大塚的な意味で良性の分業社会なのか。前述した摂河泉の菜種農村のような、近代への道を閉ざされた中世的な分業なのか。


19世紀の濃尾地方を見れば、綿糸生産をおこなっていた22ヵ村のうち、少なくとも16ヵ村では織物生産をおこなっていない。村単位で分業が発生している。一方で、地域間分業が行われない商品もある。


プロト工業論によれば、村が農村工業に特化して主穀生産が破棄されると、農村工業地域と主穀産地の間で分業が生じる。濃尾地方でも農村工業の進展にともない、農民と商人の間で米取引をする相場が立つのだが、取引量は低調なのである。農村工業を展開する地域でも主穀は自給できていて、他地域から購入する必要がない。


地域内の分業と地域間の分業は錯綜している。工産物は垂直・工程的に地域単位で分業が起こり、地域間で流通がある。工産物と主穀は村内で水平的な分業が維持され、地域内流通は進展している。しかし、地域内での主穀の自給を、農村工業があくまで農家の副業として進展した結果と解せば話は違ってくる。


プロト工業化の時代――西欧と日本の比較史 (岩波現代文庫)14世紀のイングランドと19世紀の日本では社会の成り立ちが異なる。イングランドの農村工業から帰納されたモデルをそのまま日本に当てはめるのは無理があるのだろう。2010年代にプロト工業論と大塚史学を回顧した斎藤修が指摘するように、後者は地域内分業を神聖化するあまり、地域間分業に注意を払わなかった。局地市場圏の議論を日本に適用すると、その限界が見えてくるのである。