打算と無意識

強欲な南原宏治はマンション価格を吊り上げてくる。地上げ屋三国連太郎は一計を案じ、懇意にしているホステス柴田美保子に金を掴ませ、美人局を持ちかける。三國の手下が同衾の現場を抑える手筈である。


この一連の場面では柴田美保子が不思議な行動に出る。彼女は金を拒み、代わりに三國の女にしてくれとグイグイ身を押し付けてくる。大変なモテようであるが、三國は御覧の通りの怪貌である。女性を惹くようなタイプではない。


釣りバカ日誌』で三國の外貌がネタにされたことがあった。三國の浮気を疑う妻の丹阿弥谷津子西田敏行が太鼓判を押す。あの怪相を好む女はいないと。夫の容貌を蔑まれた丹阿弥谷は面白くない。そんな男と結婚した自分は何かと西田の配慮のなさを糾弾する。ASD西田は三國との結婚を心底不思議がる。マルサの柴田美保子にも同じ不思議を覚えるのだ。金があるからモテるのならば理解できる。しかし柴田は金を拒むのである。


マルサの三國はモテまくる。


三國に借財を申し込む市村昌治は担保として娘の洞口依子を連れてくる。これから醜悪な老人の手にかかるこの美少女が不憫極まりなのだが、洞口は本妻の加藤治子と三國を奪い合うまでに、彼にのぼせ上ってしまう。


女たちは三國の金に心奪われてしまったのか。そうとばかりはいえない。


一時金を拒み囲ってくれと要求した柴田は、より長期的な利益を展望していると解せる。が、三國の転落が始まっても本妻とともに国税から男を守ろうとする。三國の子を孕んだ洞口も男の傍を離れない。


金でも容貌でもない何か(仮に人格と呼ぼう)に女たちが惹かれたとすれば、事態は非モテのロマンになる。物証を要しないモテは男に夢を与え、物象に惑わされなかった女たちの徳を確実に高めている。しかし話はそう簡単でもない。


前作マルサ1の山崎努は息子に財産を残す手管を巡り憔悴する。宮本信子は彼に助言する。金を残すのではなく父の生き様を見せてやれと。物質である金はうつろうが、機転と逞しさがあれば金は後から湧いてくる。


マルサ2の女たちの知性は金と人格を分離したのではなく、むしろ結び付けている。人格が金を引き寄せる。だからこそ三國の人格に惹かれてしまう。しかしそこに下心があるかと問えば、モテの心理学はますます混沌としてくる。女たちの主観では、あくまで人に惹かれたのであって採算は度外視であり、結果として入ってくる金は副反応にすぎない。男の好意を勝ち取るために自然は女の下心を意識の閾下に押し込んでしまう。女の打算が見透かされては、男に愛の信憑性を疑われるだろう。最初から下心がなければ、見透かされる打算もない。


閾下の下心は自然の鍛造した心理のなせる業であり、女たちの感知するところではなく、もはや下心ではない何かである。無意識の下心。この語義矛盾に三國のモテ振りの不思議は由来するのだ。