頓挫した農村の近代化:プロイセン国家の場合

伝統社会と近代国家プロイセン国家において農村を封建的な隷属関係から解放したのは行政改革であり革命ではなかった。ナポレオンに莫大な分担金を強いられたプロイセン国家は、その支出に耐えられるような経済的に自由な体制を育てるべく、変革を決行した。が、あくまで行政主導の改革であるために、私有財産制に抵触しない合法的な方法で農場領主から隷民を解放した。有償で土地の所有権が移されたのだった。


農民は一括か年賦で領主に補償金を支払い所有権を得た。あるいは多くの場合、保有地の二分の一ないし三分の一の割譲を引き換えにした。


封建制下では領主は農民に対して庇護の義務を負い、代償として農民は領主の農場で労働した。改革で領主の社会的義務が消滅すると、農民は賦役を1年間の奉仕料の25倍の金額の年賦支払いないし一括支払いによって買い戻すとされた。


改革はフランス革命の成果とは異なり農場領主の側により多くの利益をもたらした。農村には資本力のある市民と領主が―つの階層に融合した大土地所有者層が成立した。自由になった農民の階層は、数十年ものあいだ大土地所有者たちに補償金を支払い、さもなければ依然彼らに賦役で奉仕しながら、しばしば最低水準ぎりぎりの生活を送った。プロイセンの農民は調整と償却の過程で約100万ヘクタールの土地を失い、その土地は大土地所有者の手に渡った。


隷属関係の破棄による移動の自由は、従来の身分秩序の下では考えられなかったほど多数の土地を持たない農村住民の階層も生み出した。彼らは領主農場において奉公人や従来農民の負っていた賦役を肩替わりした。しばしば過剰農村人口となって不安定な生活を送った。移民や工業化が彼らを吸収できるようになるのは19世紀後半である。


農村下層民は、アンシャン・レジーム下のフランス農民のように、二重の意味で現存の体制外に放置された。賦役を償却できない彼らは依然として領主の支配権に服し奉仕義務を負っていたが、領主の方は旧身分制的意味で彼らの社会的保護をもはや義務づけられていない。しかし代わりに彼らを庇護するはずのプロイセン行政はまだ農村に届いていない。


ギルドから解放された都市でも国家が自由経済の結果に資任を取るのを拒否した。


国家はあらゆるギルドの営業特権を廃止して、生産と貨幣流通の増大を、また全体として経済の合理化を期待した。改革後、多数の「成り上がり者」が店舗を構え、飲食店を開き、手工業を営み、手当たり次第にあらゆる営業を始めた。ギルドに属しない親方の数は「雇い人」と呼ばれる職人の数をはるかにしのぎ、手工業者の総数は人口増加率を上廻って増大した。間もなく、野放しにされた自由競争の結果が現われた。多くの親方はもとからの職を失い、都市の救貧負担は思いもよらないほど増大する。1832年のベルリンでは、四人に一人が公共の生活扶助を受けていた。政府は非常事態に緊急救済事業を強いられながらも、己れの資本力も乏しかったので自由主義的経済政策に忠実であった。