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現代邦画とSFの感想

ヘレニズム概観

ヘレニズム―一つの文明の歴史 (1961年)ヘレニズムとは都市国家の体現した生活様式である。都市国家の生活に順応する者は誰であったにせよ、その素性と背景が何であったにせよ、ヘレーンとして受容された。へレーンは都市国家そのものを宗教として信奉した。


紀元前1100年頃、欧州大陸からエーゲ海域へドーリス方言を話す人々が侵入してきた。イオニア方言とアイオリス方言を話す避難者たちは生き残るために、共同の城砦を固め、共同の政治機構を樹立するように協力した。これをシュノイキスモス συνοικισμóς (集住)と呼ぶ。都市国家の樹立は市民に公共の安全保障をもたらした。剣を帯びる慣わしは廃たれ、歩行用の杖を携えることさえ煩わしいと感じられるようになった。


都市国家の宇宙観は人間崇拝でありヒューマニズムである。平和と秩序をもたらした都市国家ヘレネスは神聖視するようになり、政治制度そのものを偶像化した。集団的な人間力のうちに創造主を見出し、神のかわりに人間を偶像として崇拝した。プロタゴラスはこの宇宙観を「人間は万物の尺度である」とした。


都市国家が最初の限界を迎えるのは紀元前800年頃である。エーゲ海域における法と秩序の回復により増加した人口は可耕地の欠乏させた。餓死するか、さもなければ戦争よって新しい可耕地を獲得し過剰人口を海外へ移民せしめるかヘレネスは選択を迫られた。弱少な隣人を犠牲にして始まったヘレネスの海外展開はカルタゴ人とエトルリア人の抵抗により頓挫した。


もはや膨脹しない農耕地域内で依然として膨脹する人口をまかなう問題を解決したのは経済革命である。諸都市国家は自給自足の体制を廃して食料品と原料は輪入し、農業は引替えの輪出のための商品作物に特化して、一人当りないし一エーカー当りの生産を増加させた。シシリー、エジプトおよびウクライナで栽培された穀物を輸入するために葡萄とオリーヴを植えた。一エーカーのアッティカの土地は国内消費のための穀物を育てるより、いっそう多くのアテネ人を養うことができる。紀元前600年の終わりまでに都市国家の集合だったヘレネスの経済構造は地中海を一つの経済的な池とした。


都市国家を経済的に相互依存させた経済革命は、経済制度に匹敵するような全ヘレネスを包括する政治的な枠組みを要請した。アテネ人は諸国家と同盟を結び、国をまたぐ民事訴訟の多くがアテネの法廷において審理されるようになった。しかしアテネは同盟国に対して自己の権力を濫用した。アテネは同盟諸国を強いて、訴訟事件が商業上のものでない時でさえ、被告がアテネ市民でない時でさえ、審理を求める告訴をアテネに提出させた。これには陪審員の懐中に手当をもたらす経済的利益があった。他方、同盟国下層民に助力する機会をあたえる政治的な利益もあった


デロス同盟アテネ帝国化を危惧したのはスパルタである。このままではヘレネス世界全体の自由が危殆に陥りかねない。世界大戦の引き金となったのはコルキュラとエビダムノスの紛争である。コルキュラはアテネに救援を乞い、エピダムノスはコリントに助力を求めた。コリントはスパルタの同盟国であった。デロス同盟の結成から半世紀足らずのうちに、アテネとスパルタの不一致がアテネ=ペロポンネソス戦争を惹起しヘレネス文明を破滅させた。


統一的な政治体制の構築を阻害したのは偶像化された都市国家である。政治革命は精神革命を必要とした。都市国家崇拝を越える宗教がなければ、ヘレネスは神格化された都市国家から全ヘレネス国家へ政治的忠誠を移す気にはならなかった。


ヘレニズムの制度の崩壊によって残された間隙をふさぐために草案されたのは君主制だった。この新しい秩序は四つの際立った制度に基づいていた。王・世界国家・職業的軍隊・職業的文官である。かつてのペルシアの政体のもとにおける農奴にとって君主制都市国家よりも望ましかった。ペルシアの農奴が支えなければならなかった地主は少数の貴族と祭司である。都市国家支配下に入ると、ヘレネス金利生活者は以前の地主よりも重い頂荷となった。


農民に寄生する都市国家は田園から都市へ流民を惹きつけるために、労働者として奴隷を絶えず供給しなければ田園を維持できない。アウグストゥスによって回復された平和と秩序は戦争奴隷の供給を止め労働力を欠乏させる。機械化によって人的資源の不足を補う提案が四世紀に未知の著者によって書かれたラテン語論文に見えるが、科学的発見の実地応用はヘレネスの想像力に訴えなかった。


都市国家の限界に対応したアウグストゥス君主制は不完全な導入に終わった。まず元首の地位継承を規定する法を欠いていた。それは元首性の革命的な起源の遺産だった。元首の権威はローマ人を代表するローマ元老院から法律的に授けられた。しかし受取り手を選任するための国制上の機構は存在しなかった。ある将校が国境の兵団によって「インペラートル〔皇帝〕」の歓呼に迎えられると、その軍隊が他の軍隊に対しローマをめざして競争して勝つ。彼らは選択の遡及的な認証を元老院から強請することができた。都市国家に代わる政治制度の経験を欠くために、ローマ人は都市国家を接ぎ木して新たな政治制度を構築したが、この君主制は元首の地位が空位になるたびに世界を内乱の危険にさらした。三世紀、ヘレネス世界のは無政府状態への逆民りした。都市に寄生された田園の農民たちと国境の兵士たちは、都市にいて彼らを酷使する中流階級と会計係に対して反乱を起した。戦乱の中でヘレニズムの保管者であり伝播者であった都市の教養ある中流階級は滅び二度と回復しなかった。二世紀には神託所の神託を求める昔からのならわしが廃れていた。オリンビアの祭典の挙行は396年が最後となった。皇帝ユリアヌスは迷信的な敬虔さのために支持者たちの間でもの笑いの種となった。


ストア学派エピクロス学派は宗教の喪失に抗して、社会的羅絆から引き離された個々の人間に精神的武装を備えさせようとした人々だった。偶然と変化のあいだで乱れない心を彼らは訓練した。精神的にみずから足りている哲学者たちが神の雛型であった。しかし彼らもまた崇拝の対象としては不十分であった。自分自身を人間以上のものにする力業を試みるに際して、ストア学派エピクロス学派の人々は自分自身を非人間的にした。人間同士に対する愛と憐れみを振り捨てる犠牲を払わずには、自分自身を不死身にできなかった。この無感動は隣人も自分自身も救えなかった。


529年に皇帝ユスティニアヌスは一千年に近く続いてきたアテネの四学院を閉鎖した。失業した教授のうちの七人は、強制のもとにヘレネス宗教を放棄することを欲しなかった。七人はペルシア皇帝の宮廷に避難したが、すでに非ヘレネス化して久しいイラクにおいて、彼らは近頃キリスト教化した本国への望郷の念に満された。ペルシア皇帝は彼らの郷愁を怒らなかった。七人のヘレネス避難者はキリスト教への強制的改宗を免除される終生の保証を保持して帰国を許された。これら七人の教授はキリスト教国家となったローマが眼を離さずに監視していた最後のヘレネスであった。