フラストレーションから解放される笑い 『マルタイの女』

クレオパトラの舞台が初演を迎える。宮本信子の警護のために西村雅彦はモブのプトレマイオス兵役で舞台に立つはめになる。西村の技量に不満のある宮本は、警護とはいえやるからにはちゃんとしろと西村を叱咤する。実務家の西村は女優という虚業を普段は軽蔑している。しかし舞台の上では関係は逆転し役に立たない。凛々しい宮本の姿を前にして西村は相棒の村田雄浩に泣きつく。


「おれはくやしい」


その声色は妙にうれしそうでもある。人の凛々しさがうれしい。


舞台では西村の演じるプトレマイオス兵の境遇と演者当人の事情がリンクする。モブすら満足にやれない西村はオス性を喪失した状態にある。プトレマイオス兵はローマ兵に退治される役柄だ。開演を前にして「俺死んじゃうんだ☆」とこれまた妙にうれしくなってしまう西村。彼はフィクションに免疫がないのである。


ローマ兵との立ち回りの場面。技量がない西村は死に損ない、独りローマ兵に取り囲まれる。反射的に助命を乞い観客の嘲笑の的となったところで、西村とプトレマイオス兵が心理的に同期する。両者とも完全にオス性を喪失した。直後に劇中最大の笑いが来る。屈辱で我を失った西村が警杖術を駆使しローマ兵を次々と倒していく。


この笑いは何か。わたしは先日『冬薔薇』(2022)に同じ笑いを見た。


半グレの永山絢斗が塾講師(坂東龍汰)をさらう。ところが塾講師は少林寺拳法の使い手で車中で永山はボコボコにされる。笑う場面ではないのだが笑った。表面的には一兵卒や文弱がとんでもない戦闘力を発揮した不条理が可笑しい。『冬薔薇』には眞木蔵人を頂点として市井にやたらと戦闘力の高いオッサンが伏在していて、伊藤健太郎は涙目となる。しかしこの笑いには正義が執行されたうれしさとの混線がある。永山は劇中で最大の不興を受け手に招いてきた。これが退治されるのがうれしい。不条理な戦闘力と正義の執行。どちらに笑っているのか、もはや定かではない。


マルタイの舞台にも重層性がある。モブがとんでもない戦闘力を発揮した不条理自体が可笑しい。ローマ兵がボコボコにされて溜飲を下げるうれしさもある。西村とプトレマイオス兵がオス性を取り戻した。それもうれしい。不条理を嗤うようでいて、その笑いはいつのまにか中立ではなくなっている。


たとえばダウンタウンのカッパコントである。カッパの親父ではなくそれを不条理化した方のコントであるが、自宅にカッパが一方的に住みつき、しかも住人に落ち度がないにも関わらず説教してくる。これは不条理であり、最初はこの不条理を笑いと想定されたコントかと思ってしまう。が、ただ不快なだけである。カッパが説教を終えて引き上げようとすると例によって浜田が切れる。ここで笑いとなる。


表層的には戦闘力の突発が不条理と解され笑いを招く。しかし事態は不条理ではなく、むしろ筋は通されている。笑いには筋が通されたうれしさも含まれている。筋を通して笑わせるのなら、それはコントの類型からずれるから落ち着かなくなる。


東京03の「部長の悪口」にも類するズレがある。


営業の二人が上司の陰口で盛り上がる。そこに上司が入ってくる。一人は上司に気づきトーンを下げる。上司に気づかない同僚は怪気炎を上げ続ける。居たたまれなくなった男は上司を目の前にして悪口を再開して笑いとなる。


これは不条理を笑っているのだろうか。むしろ筋を通したうれしさではないか。


すでに悪口は聞かれているから、やめたところで陰口をたたいた過去は変えられない。それどころか、発言に信頼性がないと目され更になる不利益になりかねない。悪口を続ける戦略を取れば、発言の信頼性が担保される利得がある。その行動には合理性があって笑われるいわれはない。そこで笑いが生じるとすれば、筋を通したことへの好意と混線している可能性がある。