『牯嶺街少年殺人事件』 A Brighter Summer Day (1991)

台湾撤退というエクソダスが前提としてある。敗戦して島に逃れた男たちはマクロ的に集団去勢されている。大人の事情とは別に少年たちをミクロな去勢が次々と襲う。少年は進学に失敗し、友人に女を寝取られる。歌謡曲をソプラノで歌う少年は生来的に去勢されている。バスケ部の少年は少女にケガを負わせる。級友に謝罪を強いられた少年は試合中に気力を失う。


少年の父は文弱で実務の才がない。妻は夫を非難する。学校は息子を不当に処遇する。父は学校に抗議するも相手にされない。その帰りに父は息子に一席ぶつ。正義とはなんぞやと。これは正視に耐えない。


少年たちのミクロの去勢を結節するものがある。少女の恋人は台南に逃れ、北に戻ると轢死する。少女は少年を誘いながら、彼の級友と寝る。のみならず、その魔性は母の主治医をも襲う。しかし、この如何にも文弱な男は少女をあしらえてしまう(なぜだ?)。それはともかく、少女の周りで去勢された男どもの死体が山となる。これは退治せなばならぬと少年は決意する。少女は怪獣なのだ。


ミクロの去勢はやがてエクソダスによる集団去勢と結節する。マクロの政治状況が日常に参入してくる。大陸の間諜だと疑われた文弱の父が尋問を受ける。その過程で彼は完全に去勢される。家に戻された父は夜な夜な幻影を見て騒ぎ家族を困惑させる。去勢された男は公害となる。


去勢は不可逆である。一度矯正されたらそれで仕舞である。二度と男を取り戻すことは敵わない。ミクロの日常でいくら挽回したところで、エクソダスという根本的な去勢は覆らない。マクロの去勢を覆すためには大陸に逆上陸するしかない。そんなことはできるわけがない。


しかしそれでも、マクロではできないことはミクロでやるしかないのである。そのために文弱の父が身を呈して今やマクロがミクロ状況に組み込まれている。政治的去勢は少年たちの去勢経験として再構築される。少女の魔性はミクロの集団去勢の結節点となり、反抗すべき大陸のシンボルとなる。少女を金色夜叉すれば男を恢復できるはずだ。


が、少年と少女の痴話のもつれは金色夜叉というには応報感情に欠けてしまう。恨みは政治を越えて更なる巨視の高みへ逸脱し、少女の打倒は自然に勝利した快哉となってしまう。少女の魔性は政治化したのではなく、自然そのものと化してしまった。去勢感は消失しない。むしろ男女共々自然に拘置され敗北した。その汎敗北主義にどこまでも浸っていたい碌でもなさ。


日本家屋とロカビリー。亜熱帯の夜が幻視させる永遠の夏休み。美術の作り込みで実効化されるノスタルジーの執拗さは何だったのか。郷愁の含有する敗北主義は去勢感の構築に援用されていた。しかし今や敗北を克服したいのかそれに酩酊したいのか区別は明瞭ではない。