ある文明が滅びようとしている。文明と文明の狭間にできた真空地帯で帰農する少女が目撃するのはチンドン屋の隊列である。彼らは滅びゆく文明の徴標である。少女はまさに文明の終わりを目撃しているのだが、大人の利害関係に疎い彼女には文明の終焉が解るはずもない。少女はただ幼年期の終わりとして、自分の肉体を経由して、文明の終わりを体感している。少女に多動はもう見られない。時局に成熟を強いられたのだ。
『柴又慕情』(1972)の吉永小百合には涙の理由がわからなかった。寅に結婚の報告する彼女は理由もなく泣いてしまう。女の報告によって目の前の男は失恋した。女は男の失意を知らないが、彼女の無意識は男の放つ傷心の気配を看取してしまう。終わりは認識できない。だからこそ、類比的に捕捉されるのなら重い感受になる。表現力が乏しければ哀感が増すのである。多動の少女は徐々に社会の利害関係に巻き込まれていくが、戦争という究極の利害関係に直接組み込まれてしまうと、文明の終わりはかえって看取しがたくなる。馴致はあくまで間接的に行われる。しくじった女先生が説教される現場を目撃して少女は社会に順化していく。このアイロニカルな文体は解釈の幅や政治観の違いを包容する。少年の母は息子の汚れた衣服を見てなぜ泣くのか。うれしいのか悲しいのか。少年の時限スイッチを知らない受け手にはどちらにも取れる。もし後者だと仮定すれば、受け手は少年の暗い予後に気づいてしまう。
少年の個人的な顛末を文明の終焉に重ねる方策自体は事をむき出しに語りすぎている。電車と追憶のくどいカットバックは劇中でもっとも品のない場面である。それが伏線なのかわからない。しかしそのわからなさは知覚される。少年の効用は伏線というにはぼんやりし過ぎた予兆によって学園生活を引き締める高雅な文体にある。が、他方で少女をアイロニカルに馴致して社会の利害関係に近接させても、少女と受け手の間には越えられない一線がある。エリーティズムの壁である。
少女は文明崩落の現場にいる。その文明は明治国家が半世紀以上に渡って醇化してきた都会人の生活様式である。吉田健一はそれを「紀伊国屋の店先でコクトーの新刊書から眼を上げて服部時計店の天辺にある時計を見たときの気分」と表現する。教条的な物言いをすれば、それは、 ヘレニック社会の都市国家のように田園の収奪によって成り立った、そのままでは持続不能な文明である。赤い屋根の家もそこで営まれる中産階級の暮らしもトモエ学園も田園収奪のおかげを被っている。
田園を平和裡に解放する方法はあったかもしれない。しかし多くの例に漏れずこの文明が取った手段は清算的だった。都市の中産階級の生活を荒廃させていく戦火は、田園にとっては解放ののろしである。この世界観からすれば滅ぶべきものが滅びた話にしかならない。父の慰問の件は人に同情のないエリーティズムに見えるだろう。
魂の不可侵を本懐とする父のエリーティズムは一種のストイシズムである。ヘレニズムが文明の崩落に対応して創作した思考法がストイシズムである。その宗旨は、崩落に動じない非人間的で無感動な態度を奨励した。帰農の途上にある少女も同様に無感動に見える。大人の事情に関心のない少女には時局に動じる気配はない。しかし無感動だからチンドン屋が見えてしまう。何かの終わりを捕捉しそれを伝えられてしまう。チンドン屋は文明の徴表であるとともに、文明の変転に動じない越境者たちだ。少女の無感動が越境者の超然的な無感動に呼応して彼女にチンドン屋の幻影を見せている。
炎上する学園を前にして爛々とする校長はストイシズムの最たる人物である。工場の慰問を拒む父の宗旨を校長も共にすると思われる。しかし空襲に際して彼の発揮する超人的なストイシズムは好戦的ですらある。戦争一般への憎しみが、その強度と根性ゆえに個別的な憎しみへ分化しようとする。炎を前にした唸りは、たとえ米英の物量を以てしてもわが魂は奪えぬとすら聞こえてしまう。
超人的な無感動があらゆる政治的立場を包摂する。戦争批判は災厄に動じなかった聖人を讃える人間崇拝となり、田園収奪を云々する政治観と戦前のエリーティズムを越えていく。後にはただ、何か巨大なものが滅び去った黄昏の質感がむき出しとなって少女の前に横たわっている。