仮文芸

現代邦画とSFの感想

『悪は存在しない』(2023)

おそらくは悪を相対化するであろう話において、会社側が円滑に懲悪される説明会が不安になってくる。違和感に呼応するように、区長の男には計画は穴だらけと評させてエクスキューズをやる。補助金狙いの推測にあらかじめ言及して悪を仕立てる手管も手際がよすぎる。補助金狙いではなかったと相対化に向かうのが定石だが、登場した社長は類型的人物で開発の目的は補助金以外の何物でもない。悪を捕捉するために諏訪から都心へ下っていけば人物はマンガとなり話はいよいよ劇画になる。悪の源泉とされるコンサルは、コンサルの類型を寄せ集めたような人物である。しかし、コンサルに対置される住民たちも類型化を免れない。


住民の突っ込みを誘うような瑕疵の多い計画は、攻撃が容易であるために住民の言動を類型化する。類型化に汚染した住民たちはいかにも開発反対住民のやりそうな挙動しかできなくなる。うどん屋はいう。都下でうどんを作っていた自分はこの地の水に惹かれて開業したと。この設定がいかにもありそうな人を食った類型に見えるのは、あながち邪推とばかりはいえない。作中で唯一のコミックリリーフはうどん屋でおこなわれる。うどん屋を訪れた会話側の男(小坂竜士)は諏訪の水で作ったうどんの味に格別な価値を見出せず、会社側の悪ではなく住民の拠る正義を迂遠に相対化する。何よりも事件はうどん屋に端を発するのである。


作中にあって悪とは類型化の汚染と定義される。類型化を脱せば悪の相対化は果たされるだろう。類型解消の定石は個人の事情の開示である。説明会では類型的反応に終始した小坂と同僚の渋谷采郁は、高速の車中で互いの身の上を開示して個別化の手続きを踏む。定石通りの照れ隠しなのか、小坂が「いってなかったっけ」とメタな突っ込みをする。


悪の相対化が目的であれば源泉であるコンサルの身の上開示へ向かうはずである。話はこのラインには乗らず、コンサルを類型のまま放置する。この人には開示すべき自分が最初からなく、悪の相対化は空回りする。結末の事件にも会社の関与はない。開発は事件の原因を説明する手段に過ぎない。森の便利屋(大美賀均)が約束を忘れた。これが事件の発端である。大美賀はたびたび娘の迎えを忘れてしまう。その健忘は友人に突っ込みを入れさせてエクスキューズをやらないといけないほど設定が不自然で病理すら思わせる。展開の瑕疵を隠すように大美賀の健忘には他者を介在させ帰責をうやむやにしようとする。住民の正義は水に依拠している。その水を汲むと大美賀は娘の迎えを忘れてしまう。訪ねてきた小坂らを使役して水を汲んだばかりに迎えを忘れ少女は神隠しに遭う。会社の人間が来なければうどんを食わせる必要はなく水汲みを頼まれることもなかった。帰責に他人を関与させる入念さは大美賀の帰責の重さの裏返しである。


大美賀はなぜ時間を守れないのか。時間を守れないパーソナリティとは何か。『モテキ』でピエール瀧に名刺を渡そうとする森山未來リリー・フランキーがたしなめる。芸人さんに名刺を渡してはいけない。名刺を渡してしまうと当人にはそのつもりがなくとも交換が暗に前提にある以上、相手の特権性を侵害してしまう。自分に知名度がないから名刺を使う。しかしそれは相手の名声を疑う行為でもある。大美賀も小坂の名刺を受け取らない。大美賀をルーズにするのは自分の特権視である。GPS座標の送付は特権化の最たる仕草である。小坂はGPS座標を見て奇人だと正しく評価する。反対に作中で最も時間に厳密なのが、出先からオンラインで複数の打ち合わせを掛け持ちするコンサルである。自分を持たない彼には自分の特権視は不可能である。とうぜん開示すべき身の上はない。


物語の人物対置は映画の『模倣犯』に近い。コンサル(原作は塾講師だが)と庶民を対峙させてコンサルを退治した庶民賛歌を、どう見てもエリート主義者の森田芳光は改変し、コンサルが畳職人をただの庶民でないと発見し連帯を覚える話にしてしまった。本作がコンサルに対置するのは少女である。やはりエリーティズムに依拠する物語は通俗の価値観を反転させ、究極の無私をコンサルに仮託し少女の行動を私欲に支配させる。開発予定地に行ってはならないと注意されていた。少女は制止を聞かず原野に向かい手負いの鹿と遭遇する。張り巡らされた伏線が応報との区別をなくそうとする。原野で大美賀が見たものは少女と鹿が見つめ合う宗教画のような構図である。しかし彼にとってそれはホラー映画の間合いにほかならない。


映画には大きな嘘が一つある。伏線まみれの細心な構成の中で、ゆるキャン△に目覚める小坂の動機だけは突飛である。まき割の観察に割かれる冒頭の尺の不自然な長さは突飛さの証左になるだろう。


諏訪に向かう高速の車中はあらゆるものを接続する境界域である。渋谷が元介護士だとわかれば健忘する大賀美の健忘フラグが立ったと誤連想してしまう。後で渋谷と小坂を水汲みに使役して惨劇を引き起こすから誤連想とはいえなくなる。


なぜ介護士が芸能業界に来たのか小坂は訝る。きれいごとがないと渋谷は業界を好意的に評する。これはコンサルの自分のなさと接続する。


小坂はやがて仕事の愚痴に走り激情に駆られて大きな声を上げてしまう。渋谷は声の大きさに委縮して気まずい時間が流れる。小坂にゆるキャン△の天啓が降ってくるのはこの直後である。


小坂と渋谷の間に流れた無言の経過は神隠しと同質の時間である。


序盤で迎えの時間を忘失した大美賀はひとりで帰途についた少女の後を追い森を歩く。大美賀の姿は地面の起伏に隠れ、再度姿を現した彼は少女を背負っている。よくも悪くもこれはイヤらしい叙法だ。ホラーでもないのに雨月物語をやって画面に強度を引き起こす。


学校の玄関先では児童たちが得体のしれない姿態で活人画のように固まっていてギョッとさせられる。直後、だるまさんが転んだと聞こえ、イヤラしとなる。しかしこれらはホラーの卑劣な援用ではなかった。少女が実際に神隠しされ鹿と活人画をやればホラーの叙法が正当化される。そのホラーは卑近には鹿に襲われる危険であるが、同時に大美賀はより大きい何かに直面して固まっている。もはやおのれの特権視を許さない何かに。


悲劇の原因は大美賀と少女の健忘にある。大美賀の健忘はうどん屋の水に因る。しかし、因果はさらにさかのぼる。水汲みを終えた三人は銃声を聞く。鹿を手負いにした銃声である。鹿は山を下り少女と出会う。


コンサルは自分のない動物的人物である。鹿は動物そのものなのでコンサルの上を行く無私の存在である。これが自己の特権化を罰しようとする。三人が聞いた銃声は無私の体系の咆哮である。小坂と渋谷はそれを知らなくともわかるものと表現する。ホラーとは無私の体系との遭遇である。


悪の源泉は劇画になってしまった説明会の違和感に帰っていくだろう。正義の行使に不慣れなために住民の反応はことごとく類型化した。殊に暴力性向男は粗暴が免責される場に至って、戦場で輝くサイコ気質の兵士のように、目的と手段の境を見失っている。寓話が問題視するのは正義がその行使者の自己を特権化してしまう淪落であった。大美賀がホラーと感じたあの体系は、正義の適切な行使とかかわりがある。