仮文芸

現代邦画とSFの感想

『怪物の木こり』(2023)

脳チップとかMIT出のプロファイラーとかマンガが容赦なく幅を利かせる劇画であっても、何か本物がなければ劇画は実効的にならずただのマンガに終わってしまう。染谷将太にサイコ役をあてがい獅童にヨゴレを演らせる配役は類型化の笑いをもたらしかねないほど条件反射的である。殊に弁護士事務所の卓上の調度に映画の志の低さはよく表れている。卓上にはバンカーズランプやバリゴの気象計といった庶民が想像するであろう金持ちの書斎机に相応しいアイテムが並ぶ。その類型化の究極が染谷の配役なのだが、彼の場合マンガになるほど的を得るからこそかえって劇画をマンガから救っている面も否めない。亀梨和也獅童も根がサイコではないから劇中ではサイコの演技をする人にしか見えない。染谷は本物が本物をやるわけだから、その類型の完成度は嘘を通行させる力を持ってしまう。が、だからこそ厄介ごとが持ち上がりもする。


サイコの矯正が物語の元々の発端だった。治療のためには病理を知る必要があり、病理観察のためにサイコが培養された。物語の潜在的な課題はサイコの定義にある。話を良識に収束させるサイコならぬ作者にはサイコの生態に理解は及ばずその定義ができない。亀梨と獅童は演技をするたびに常人がサイコをやる矛盾につきまとわれる。染谷にも同種の疎外が反転して襲う。外見はどこから見てもサイコの染谷がサイコらしくない発言に及ぶ。反社会性気質にもかかわらず社会はサイコによって進歩するという。サイコならば社会貢献の観念は生じないだろう。亀梨とはサイコ同士の連帯を染谷は覚えるのだが、サイコ同士が遭遇すれば貞子vs伽椰子になるのが関の山だろう。作者にはサイコの機微がわからない。


『CURE』(1997)と『復讐 運命の訪問者』(1997)が描いたのはサイコ同士の種族的連帯であった。サイコに社会的属性を与えなければ常人はサイコを認識できず観察ができない。サイコ清にはサイコが社会性を帯びる矛盾に自覚があり、常人がサイコと争ううちにサイコに感染する筋で辻褄をあわせた。この問題意識は本作にもなくはない。絵本の怪物は常人に近づくために常人のふりを続けるうちに自分がサイコなのか常人なのかわからなくなり、サイコの定義を改めて知るために仲間を量産する。普通の人がサイコを演じる亀梨や獅童の役者的境遇と怪物のIDクライシスはリンクするが、演者のメタな疎外が本物になったとき作者の常人性は話に活かされる。獅童の役柄がサイコの振りをしていた善人に変われば、それは本来の当人に他ならない。ただのヨゴレから影のあるヨゴレへと跳躍した類型は然るべきる類型だからこそ劇画を通行させる強度に達する。獅童が見舞われる良心回路的苦悶は作者の気質と矛盾せず嘘がない。


サイコと常人の狭間で揺れるIDクライシスは亀梨のサイコ度を不明瞭にしてサスペンスの叙体を構成する。亀梨は常人に戻ったのか。サイコの挙動は名残に過ぎないのか。それとも彼は常人の振りをしているサイコなのか。おそらくは作り手の意図を越えて話はついにサイコの定義に至ろうとしている。


物語の結末は『藁の楯』(2013)のそれと関連づけていい。サイコの人権を身を盾にして守ろうとする大沢たかおにサイコの藤原竜也は「すげえ」と感嘆してしまう。聖人の行為が理解できないのである。


染谷の言動がサイコ気質に反するのは彼の自覚に原因がある。「俺たちサイコパス」と彼は自称する。自分をサイコと客観視できるのは常識のなせる業であり、真性のサイコならば常人は自分であり周りの常人たちがサイコに見えるだろう。常人に戻った獅童はかえってこのサイコの定義に初めて当てはまってしまう。獅童はサイコを狩る自分の正しさを疑わない。しかしやっていることはコスプレ殺人鬼である。サイコの振りをするうちに彼は真性のサイコになっている。亀梨が最後に行った行為は正しさの倒錯的な硬度ゆえに目的如何に関わらずサイコの病理に最も近づいている。サイコでないと正しさ確信するほど彼らの行為はサイコに近づいていく。


依存症の人のようにサイコはサイコを自覚した時点でサイコではなくなってしまう。サイコの定義は無意識とのかかわり方に帰着する。