仮文芸

現代邦画とSFの感想

ニール・スティーヴンスン『七人のイヴ』

七人のイヴ 上 (ハヤカワ文庫SF)妖星ゴラス』(1962)において黒色矮星を流れ星と評した沢村いき雄を上原謙に侮蔑させ、こうなれば政治の出番はないと総理の佐々木孝丸に諦念させたのは工学者の審美感であった。本作では月の分裂を天文ショー扱いする小学校教師から端を発する庶民嫌悪は人種憎悪へとエスカレーションして、現場で落命する宇宙飛行士はロシア人と中国人ばかりになり、津波に襲われるのはインド西岸で4万人が水没する。


教師と生徒たちが月の分裂を観察する件は『日本沈没』の序盤も思わせる。教師の夫の天文学者は月の分裂に災厄の予兆を覚え、天文ショーに興じる庶民の無邪気さが関節的に報いを受ける。何兆もの月の断片が5000年に渡り地表を爆撃するだろう。3年の猶予の間にISS を拡張しながらそこに収容できるのは1000名強にとどまり残りの人類は全滅する設定であるから死生観への言及は避けて通れないが、物語が主に問うのは宇宙に打ち上げられた工学者たちの死生観であり、地上の残された人々への言及は挿話にとどまる。


NASAの長官は家族や親友に別れの手紙を書いて会議に出てくる。ISSの拡張工事で次々と斃れていく中国人やロシア人たちの死にざまは前述したように人種偏見を思わせるほど淡々としている。彗星の核を回収するミッションでは宇宙飛行士たちは出力の足りないエンジンに活を入れるべく特攻まがいの船外活動をやって散り、原子力エンジニアは故障した制御棒のアクチュエーターを手作業で交換して落命する。文字通り必死の作業を要求するトラブルが次々と設定され男たちが躊躇なく作業に殉じていく中世的な軽さは、現代邦画に毒された身にはミステリアスである。


女性宇宙飛行士をサルベージする件がある。工学者のカジュアルな死生観に則ればこの救出は資源の無駄であり、救われた当人も自分を犠牲にすべきだったと難じる。彗星核の回収船に乗り込んだメンバーのうち2名の宇宙飛行士(♂)とエンジニア(♂)は落命しロボット工学者(♀)がひとりだけ生き残る。ISSの拡張が始まると女性司令官はカーク船長タイプの宇宙飛行士と交代する。船内では男たちが進んで危険な任務を引き受け女性たちは保護された空間に集められる。工学者の審美感は『プロジェクト・ヘイル・メアリー』が温暖化を肯定したようにリベラルSFの価値観には準拠せず、宇宙に出た人類は他に方法がないために原子力に依存して放射線障害に斃れていく。その性の政治学は子宮の温存を最優先させるため女性の役割を規制する。内紛でISSが襲撃を受ければ男は女の盾となり「男の子が生まれたら俺の名前をつけてくれ」と言い残して散っていく。地上に残された男は最後の瞬間に宇宙にいる婚約者へ「俺たちを誇らしい気分にさせてくれ」とメールを送信する。ひとつの答えしかない工学的課題に直面して、たとえそれが作業者の生存を危うくするとしても彼らは不確実性を失う安らぎを享受するように見える。


物事の工学化≒行政化は否定的な文脈で扱われる場合が多い。不確実な事態はそれぞれの利得がはっきりしない選択肢をもたらし工学的知見に依存できない判断を要求する。政治と呼ばれるこの判断の営みはストレスフルなために、人間には政治的課題を工学・行政のそれとしてあえて錯覚して答えはひとつしかないと安心したがるインセンティヴがある。


隕石群の来襲が確定してISSに事情を説明する大統領が天文学者に遮られる。事は工学的事象となり政治家の出番は終わったとゴラスの佐々木孝丸のように彼女は悟るが、そのままフェイドアウトした孝丸とは違い大統領は土壇場でISSに密航し工学者の楽園に政治を持ち込もうとする。いわく「ネット慣れした彼らが人生から期待する率直さを以てしては難局を切り抜けない」


人類絶滅後のISSは少数の工学者によって運営されている。状況は非常時と定義され、運営者の独裁は戒厳令によって法的に裏付けられている。大統領は行政の自律を警戒する合衆国の元首らしく、正統性の調達に課題を抱えるISS行政府の脆弱性につけ入る隙を見出す。


行政の執行力を担保するのは実力組織である。序盤でサルベージされたロシアの宇宙飛行士はエスピオナージュの訓練を受けた七種競技のメダリストであり、性格は長門有希で一人称に自分の名前を用いるマンガキャラである。船内最強の武力である彼女はサルベージされた恩義をISS運営陣に覚えその執行力を物理的に保証する。大統領にとっては属人性に左右される政体は信用に値せず、自らの正統性を有権者の支持から調達しようとする。


破砕物の危険を避けるためにISSはより高い軌道に移行し月の断片に定着して5000年をやり過ごす計画を立てる。大統領は火星への定着を訴えて別の選択肢を作り事を政治化する。運営から締め出された人々を火星案に糾合する。この案の利得が月に匹敵するのなら争点化には正当性があるが、工学SFである本作は行政の政治化を非難する立場を崩さない。火星案に検討の余地はなく大統領の動機は権力目的で火星案は理由づけに過ぎないと評される。


工学者をカジュアルな死生観を駆り立てた機制を探る旅は時制を持たない徳の特性に到達する。ローマ皇帝ガルバがオトの手勢に襲われたときたった一人の百人隊長が攻めかかってくる人々の前に立ちはだかりインペラトールに手をかけるなと命じた。この人の名はセンプロニウス・デンススと伝わっている。彼はガルバから何一つ恩を受けたこともないのに名誉と法を守るために行動した。「唯一人の男が何万人といる中にローマ帝国にふさわしいはたらきをしたのを太陽が見ていた」とプルタルコスは評する。


2000年前の百人隊長の名前と事績が伝わるのは徳が時制を持たないからだ。災厄から5000年後、ISS船内のカメラに記録された人々の活動は人類の聖典となり街頭モニターに流され会話では頻繁に引用される。ISSの婚約者にメールを送った男は戦略原潜の艦長だった。彼が最後に送った自撮り画像も宗教画のように扱われ、5000年後地上に再び降り立ち海底で隕石をやり過ごした艦長の子孫たちと対面した人類が掲げたのが半メートル四方に引き伸ばされたその写真だった。