東出昌大やピエール瀧の配役がうさん臭く見えるのはなぜなのか。東出ならば野性のリベラルをやるよりも憲兵隊に入り淡々と弾圧を行い、瀧は在郷軍人をやって虐殺に手を染める方がしっくりくる。東出がリベラルでも弾圧者でもタイプキャストに変わりはないから、紋切りだから胡散臭いのではなくむしろ紋切りの徹底が足りないために綺麗ごとに見えかねないのか。
作りごとめくのは配役にとどまらない。人々は隙あらば演説を始め筋の進行を止める。党派性の優先によって話は歴博近代コーナーの展示資料に過ぎなくなる。キャラクターの抱える事情の説明を当人たちの長広舌に依存した『さよなら歌舞伎町』(2015)に続いて、脚本家の悪癖が顔を出している。井浦新をインポにした惨事の一切が当人の口から長々と論じられてしまえば、それはもはや映画の叙体ではなく講談である。『歌舞伎町』から同様に継承する、非差別者を聖化する癖などは差別の変奏だと疑われるが、これについては作者の性癖が嘘偽りなく露呈するからこそ、アウトカーストの行商人らと飴売り少女のランデヴーする、教条性の最たる場面にあって少女のかわゆさは党派を超えてこちらに伝わってくる。
インテリ井浦の境遇に一貫して身を寄せる物語のエリーティズムは異なる政治の立場には理解を示さず、在郷軍人たちはことごとくマンガとなり、マンガな人々がマンガな事態を引き起こす訳だから事件は矮小化され、受け手との間にオフビートな距離ができあがる。これがオフビートになるのはそれはそれで怖いが、マンガ化は辛みをエンタメの枠内に抑え込む安全弁にもなっている。海外マイノリティの迫害ではなく同士討ち帰結するのも辛みを低減させる安全弁である。私情を優先させて事件の発端を作り仲間にリスクを負わせた永山瑛太も、口火を切ったのがマンガな在郷軍人ではなくノンポリの女なのも事件から党派性をガス抜きしている。
少女と行商人の邂逅で党派性をはみ出してきたのは少女のかわゆさにとどまらない。少女から送られた扇子をいきり立つ村人たちの前で永山が開き、村人の疑義に回答が与えられる。親善の品が圧制者の仲間割れを引き起こし報復の手段となる因果の妙からは、物語の依拠する政治観の戸惑いが窺える。人権を行政ではなく個々人の気合と根性に担保させる思考には、流言飛語に加担した当の行政が自警行為を取り締まり事件を終息させるマッチポンプは不可解であり、事件に介入する行政には正当な評価が与えられながらも加害者の量刑相場には疑義が向けられ留保がつく。
話が終わり全体を俯瞰して見えてくるのは『ゴジラ-1.0』(2023)のような井浦のインポを治癒させるプロットである。戦場で引き起こされたインポは戦場以外で快癒する術はなく、神木隆之介のインポを叩き直すべく浜辺美波はゴジラを連れてきて戦場を再構築し、騒動を前に腰の引けた井浦へまた逃げるのかと田中麗奈は叱咤して、ゴジラも虐殺もED治療の手段に過ぎなくする。
東出の配役がもたらした違和感の正体は今や明らかとなった。女が怪獣を連れてくるマイゴジのモチーフは蒼井優がB-29の編隊を呼び寄せる『スパイの妻』(2020)にさかのぼる。そこで東出にあてがわれた役が弾圧を辞さない憲兵であった。