タイトルが予断を誘っている。登場する庶民はみな言語能力が高くステロタイプな庶民は出てこない。庶民然とした外貌と用いられる言葉のギャップが笑いを創作している。自称インテリの若者たちが庶民の生活力に敗北するオチには庶民賛歌の含みがあり、外貌と言語の差で創作される笑いにも好意的な趣がある。
道に迷った若者たちは山梨の行商人Kさんと出会う。この人は初出につづくコマで野外放尿にふける様が正面から捕捉される散々な扱いなのだが、野卑な登場の割には言葉遣いがおとなしく丁寧で、ここに早くも違和感が生じている。
若者たちはKさんの紹介で農家に一泊する。家主である老婆は後湾症の外貌にそぐわない職業人のような明瞭な言葉と価値観を備えていて、インテリ青年との間で会話が成立する。寅次郎とインテリたちの疎通を可能にしているのは知識人の度量だが、つげには山田洋次的ないやらしさはない。
本作の山場は酔態に至ったKさんが読書人の語彙を爆発させるカットだ。
もともとこの人は老婆の心理を推察する言葉の端々に知性の片鱗を見せていた。それでも「私という人間」「罪深い男」には笑いの飛躍があり、その間隙は酔態に至る過程の省略によって生じているので、事は時間経過を表現する叙述の技術論に収斂される。
経過の前と後のカットをそのままつなげば人は経過を認識できずジャンプカットと呼ばれる事態が生じるため、カットの間に何かインサートする必要がある。この場面であれば農家外観の遠景、室内のガジェットの接写、室内から眺めた庭先等々がインサートの材料となるだろう。要は会話者をいったん画面から外したい。本作ではインサートを挟まずにカットが時間をまたぐ。にもかかわらず、カットは自然につながっている。
時間経過を認識させるのはイビキである。経過の前後で変化するイビキの音量に老婆が深い眠りに陥る時間が想像される。
三人を俯瞰するこのカットは絵的には破綻している。対話劇のサイズから客観の引きになるのは時の飛んだカットを自然につなげる意味では正しい。おかしいのは畳と人物の対比である。畳ばかりではなく障子のサイズにも違和感がある。ちゃぶ台も含めセルが小さすぎる、あるいは背景が大きすぎて、人物が構造物に飲み込まれるような歪んだスケール感が酔いのまわる様を伝えてくる。
作者はこれを意図して対比をあえて狂わせたのか。
嘘があるのは「罪深い男」のカットも同様である。位置関係を考えれば男の背後は庭先でなければ前カットと整合性が取れない。別カットでは正しく背景が庭先になっているのでこの間違いは意図である。ここは壁に影法師がなければ様にならない。ところが「罪深い男」につづく若者たちのカットでは彼らの並びが俯瞰カットとは逆になっていて鼻髭までなくなっている。
このあとにつづくKさんの回想でイビキの響く俯瞰に類する絵が再び登場する。
パースがついているとはいえ例によって畳は巨大で奥にある碁盤は過小に見える。ここも心理的に際どい場面なので対比の狂いには意味がある。『長八の宿』(1968)にも室内の引きになると畳が巨大化するカットが出てくる。
このカットは日常シーンなので対比の狂いに意味を見出すのはむつかしい。
室内場面のレイアウトを3Dで出力する現代アニメでも引きで人物と背景の対比がおかしくなる現象は頻発する。3Dで間違えようがないはずにもかかわらず狂うのである。