仮文芸

現代邦画とSFの感想

『蛇の道』(2024)

サイコの視点から筋を構成すべくその内面に足を踏み入れてしまえば、サイコ性は逃げ水のように捕捉を逃れてしまうだろう。理解できるサイコは語義矛盾であり、心理を忌避しながら近接する矛盾の営みが要求される。対応するのはホラーの叙法である。


接写で内面に近づこうとしても、柴咲コウの内面は不明瞭なままでサイコ性が際立つ結果に終わってしまう。男たちは柴咲のわからなさを「ヘビのような眼だ」と評する。これは接写にもかかわらず輪郭が拾えない『回路』(2000)の幽霊の援用である。銃撃戦の最中に男が柴咲の姿を求めて見上げると、彼女の背中は視界に入るがピンが来ない。あるいはローキーのためにやはり『回路』の幽霊のように輪郭がはっきりとしない。ビデオ通話の着信に応じても自分はカメラの視界からは逃れ、画面の中の夫は逆無言電話に当惑するばかりであり、柴咲のそのサディズムには笑いすらある。追加の捕獲に意気が上がる件では拘束具の溶接に勤しむ柴咲の背後で男が射撃練習を始める。この面白過ぎる絵はもはや誰の視点でもない。あえていうなら慮人のそれか。


原案がそうであったように最初から笑いのタネは尽きない。柴咲が棒立ちしているいかにも大将らしい冒頭の遠景はパリの街頭でやっているから違和感の笑いとなる。実の所これは異化のもたらす笑いではなく、当人の視点でありながら既にそうではない矛盾が密かに笑いとして処理されている。


サイコの捕捉に当たって『CURE』(1997)が用いたのは視点のすり替えだった。大杉漣の場面で一寸だけ萩原聖人の視点が差し込まれ、これをきっかけとして受け手は役所広司の内面から締め出されるのだが、惰性でそれに気づけない。『蛇の道』にも似た場面がある。二人目を誘拐して遁走する柴咲と男を追っ手の銃弾が襲う。まことにバカらしいことに弾はことごとく逸れ追っ手は困惑する。男たちはラスボスを夢と現実の狭間を揺蕩う人物と評する。同様に柴咲も幻影と化している。


柴咲の視点から締め出され男の視点に憑依するのなら、サイコを解する趣向は全うできない。男には柴咲と受け手に隠している情報があり、受け手が男からも締め出しを喰らえば視点は宙に浮く。男にとって柴咲は自転車に乗ったサイコであり、いま受け手と同化して柴咲を見送る男は受け手の知らない真相を知るために、実際は受け手の視点と同期していない。柴咲は自室に戻ると内省に沈む。サイコの内省は論理エラーだからフレームは柴咲の姿から外れ床を這うルンバを追い始める。西島秀俊は全登場場面がわらいである。この男がナルシシズムに身を任せて口説きにかかってくると、柴咲は心理誘導暗殺術を用いて一撃で退治する。叙法は『回路』だが原案の90年代後半の気分を引きずって内容は『CURE』に近い。


顛末の俗化には功罪がある。そもそもの事件の存否を問うような筋の高級化をやれば、男の心理的混乱が俎上に乗るためにサイコの内面に入れなくなる。哀川翔のVシネに過ぎない筋を映画の質感で扱うのは無理があり、ラストは哀川翔「冗談じゃねェぜ!」で締めたい代物だが、むろんそうはいかない。


筋の俗化はサイコとしての柴咲の俗化に及び、サイコにはあってはならぬ動機がそこで発見されてしまえば受け手との同期は可能になりサイコの捕捉は頓挫する。柴咲こそ全てを把握し男を支配していたはずだった。ここでまだ彼女にも知らない情報があったとすれば男と同じ構図に逆戻りする。柴咲よりも真相に近いと信じた男には誤算があり、自分よりも全容を把握する人物はいないと信じる柴咲も間違っている。意識の閾下とは言えまだ柴咲には受け手に悟られぬ情報が埋没しているのなら、受け手との視点の同期はズレたままになる。


真相は男から柴咲へと渡り歩き彼女の夫に到達する。受け手にとって同期対象だった夫こそ全てを把握する元凶であり、受け手は夫の視点からも知らぬうちにはじかれていた。ことごとく拒まれた視点は浸透不能な柴咲の内面へ爆縮レンズのように向かわざるを得なくなる。そこに無理に入れば何が起こるのか。『CURE』と『回路』から始まった旅は清映画のアクチュアリティに接続する。『スパイの妻』の蒼井優、怪獣化して夫を襲う妻である。


柴咲がサイコ然として自転車で去ろうとすれば、ゲイリー芦屋完全再現の仰々しい劇伴に乗って雲はたちまち陽光を遮蔽する。大将いつものノリだが、柴咲のサイコ性が天地に干渉している。『スパイの妻』の蒼井には幾度か言及してきた。『カリスマ』(1999)のモチーフが援用され、夫の背信を知った妻はB-29の編隊を呼び寄せ癲狂院を脱しアメリカに上陸した。日本は夫が元凶だと知った柴咲によって未曽有の危機を迎えようとしている。怪獣がやってくるのだ。