仮文芸

現代邦画とSFの感想

ローラン・ビネ『文明交錯』

文明交錯 (海外文学セレクション)異なるのはタイミングだけで、鉄器と馬を南米に伝えるのは欧州にゆかりのある集団に変わりはないから、インカ人に欧州を侵略されたとしても西洋の読者にはプライドが大して傷つかない気安さがあり、それが最初のところ気に食わない。


鉄の架空伝来とともに大西洋両岸の交流は途絶え、数世紀後にコロンブスが来寇してくると作者の狙いが見えてくる。コロンブスはインカ人の改宗や本国への服従を求めるような、キリスト教の世界観を相対視できない人物として造形され、リベラルの心性を内包した現代の読者にとっては憎悪の格好の吐け口となる。自文明の優越を疑わないコロンブスは奥地に進むにつれて鉄器を伝来させた分岐の結果を身をもって知る。


非啓蒙物の退治に筋の求心力を託すこの手管は、アタワルパが逆上陸すると使えなくなる。


鉄のあるインカであっても欧州の文明とは質量ともに差のある設定であり、実際にまともに戦えば勝負にならずスペインを乗っ取る際にはカール5世を誘拐する曲芸に頼る。曲芸であるから現実改変の求心力を活用できない。代わりに欧州編もキャラクターの啓蒙的な振る舞いで読者の好意を惹こうとする。異教徒の迫害を目撃してアタワルパは怖気を振るい、ヨブ記の神には憤慨する。


リベラルなインカ人はいかにも嘘くさい。このご都合主義に対応するのはある種の誤配である。アタワルパは信教の自由を認めユダヤ人は黒人奴隷を軍団に組み込んでいく。リベラルだから啓蒙行為をやるのではなく、欧州大陸では少数勢力のために生き残りをかけて必要に迫られそれをやり、結果として行為が啓蒙に適ってしまった。


スペイン王となったアタワルパはナポレオンの業績を300年先行させ、侵略先の農地を改革する。南米で分岐を引き起こした意味がアタワルパのなろう改変によって判明する。アタワルパはリベラル心に準拠して農民を領主から解放したのではもちろんない。王と貴族が併存する封建制下では、王権には貴族を牽制するために農民と同盟するインセンティヴがある。領主が農民の収奪をほしいままにできるのは、王権に領主を圧するほどの力がないからだ。封建的状況において中央集権的な王権が可能になる機制が近代化の鍵を握っている。アタワルパの無双に物証を与えたのは南米から流入する金であった。


遅行する歴史観に基づく架空戦記が救う対象としたのはインカ帝国ではなくスペインであった。史実より数百年先行して南米に鉄を伝来させてスペインはようやく救われる。対米戦回避のためには満州事変の直前に分岐を作ったのでは手遅れで、幕末に戻ってもどの分岐をたどろうが19世紀の貿易システムに組み込まれた時点でアウトで、ついには鎖国直前に戻らねばならないような息の長い話である。


欧州の誕生したアタワルパの帝国の顛末は語られない。彼の中央集権的王制がいつかは枯渇する黄金の流入に支えられている以上、もし議会を通じた徴税制度を発明できなければ現実のスペイン同様に予後は暗いだろう。