仮文芸

現代邦画とSFの感想

『メタモルフォーゼの縁側』(2022)

老女に身をやつしても宮本信子は体のキレを隠せない。声の強さも老人の外貌に釣り合わず、加齢の物証として大仰に肩こりの芝居をやっても、大仰だからますます老人から逸脱して信子としかいいようのない異物を免れない。


これは誤配の映画であり、体のキレが発揮されるべき場面では逆に躍動が収縮してしまう。BL読者の類型から信子も芦田愛菜もやや外れた感性をしている。男子高校生が互いに口唇を重ねても彼女たちは発作的に反応しない。


信子がそうであるように芦田にも肉体と感情のズレがある。インドア的人物とされる芦田は小型哺乳類のように廊下や路地を疾駆して、ほんらいBLに際して表出すべき反応を日常の運動によって放散している。信子に生来的に備わる躍動はBLには吐け口を見出せないために内向して宿主の腰を折る。肝心な時に決まってぎっくり腰になるのだから、心因性の何かを予感させる。肉体と感情をめぐる誤配をぎっくり腰としてBLが表面化させ、信子は解決を求められている。世間は老女をノルウェーに送り出して厄介な腰に対応しようとする。誤配問題の本当の在処に気づくのは芦田である。


劇中マンガの冒頭で女がいちゃつく男たちを観測している。男は女を挑発する。




BLや百合の読者が根源的に被る疎外に課題は集約されつつある。女であるために男であるためにふたりの仲に介在できないくやしさである。


信子も幼少期にマンガにまつわる疎外を経験し、その思い出が店頭でBL本を手に取らせた。そのBLの表紙はかつて熱狂したマンガ家の絵柄を彷彿とさせるとともに、ファンレターを出せなかった苦い記憶を信子にもたらした。自分の筆跡に絶望して信子は投函を断念し、これがトラウマとなって彼女は字の修練に励み書道が本業になってしまった。信子は書道家になるべく予定されていたが、予定があらかじめわかっていると修練を怠り予定が達せられなくなる。人生の結末は常に誤配される必要がある。誤配は解決すべき課題ではなく利用されるべきだ。


漠然として定義ができないから芦田の課題はむつかしい。級友は海外に進学する。自分の進路は決まらず焦りが生じるばかりである。芦田の創作活動は、日常のぼんやりとしたと焦りとBLの疎外が同根であると気づいたとき開始される。


それはBLからは程遠い私小説というべき代物だ。本屋のバイト帰りに青年は宇宙人と遭遇する。青年は問う。


「君はどうしてこの町に来たの?」


「上から君が見えたから」


女であるためにBLから締め出される課題は自らが創作をおこなわない限り解決されない。自分と信子の関係をBLに見立てる誤配がBLの疎外を乗り越えてしまえば、創作を終えた芦田の満ち足りはそこにとどまらなくなる。


近代の分業社会は共同体から人間を抽出し個人を創造した。孤独はその副作用であり芦田の抱えた進路の不安もその事例である。救いがあるとすればひとつだけしかない。分業の産物だからこそモノを作り続ける限り人は孤独にならないのだ。