ジョー・ウォルトン『わたしの本当の子どもたち』

わたしの本当の子どもたち (創元SF文庫)求婚を受けるか否かで女の人生が分岐する。それぞれの人生を並行して鑑賞する趣向である。結婚した分岐ではカトリックの夫の保守的な家庭観に女は束縛されキャリアを失う。夫は妻の知性を徹底して否定してくる。そもそも子育てに忙殺されてキャリアどころの話ではない。長男は特異児童的な挙動を示し手を焼かせる。他方、結婚しない選択をした女は同性のパートナーを得て性多様性コースに乗る。キャリアも順調である。分岐間の境遇の落差が、殊に保守的な夫のヒール過ぎる点が創作上の最初の問題提起となる。作者の価値観は性多様性の称揚にある。しかし創作の作法として、いったんはその価値観を相対化しなければ、受け手を説得するのは難しい。ただ称揚するだけでは、あるいは保守的な家庭観を下げるだけではいけない。では、どのような手管で相対化をするのか。まず興味が惹かれるのはそこだ。


この話、意外なことに最初から順風満帆な性多様コースよりも、保守分岐の方がはるかにBildung感?がある。家庭の束縛から始まるのは少しずつキャリアを取り戻していく過程である。その中でさまざまな人格発見がBildungと並走する。手のかかった子どもが能力に応じて適応していく。母親とは和解する。


分岐文学として本作を見れば物足りない点が多々ある。保守コースの女と性多様コースの彼女は分岐以降、ほぼ別人になるといってよい。分岐文学は共通項が差異を引き立てるから、これでは分岐させる意味がないように見えてしまう。ただ、主人公の母親だけが共通して両分岐に登壇する。保守コースの娘は折り合いの悪かった母と和解できてしまう。多様性コースの娘は対立したまま終わってしまう。これが母の認知症の予後を左右する。オッサンの受け手であるわたしには介護問題は他人ごとでないので、こういう話の方がよほど‟SF”である。


保守分岐における人格発見手法と価値観の相対化の最たる部分を付託されたのがヒールの夫だろう。女が浮気を疑い調査を入れると夫がゲイだったと判明する。もっとも、作者はこれ以上は夫に深入りしない。ゲイにもかかわらず子ども目当てで女を抱いた偽善者として、夫はかえって蔑視を受けてしまう。カトリックの家庭観を人に圧しつけながら自分は何だという口振りになる。この夫の心理こそ知りたくなるわたしなんぞには、作者の価値観との相違を覚えてしまう。


夫は、アカデミックなキャリアを嘱望されながら挫折した、オス性を奪われた人物であり、妻の知的態度やキャリア志向に耐えられない。保守分岐は去勢された男の公害を扱っているとみてもよい。作者が偽善だとした、性的嗜好と信仰の葛藤こそ観測に値するとわたしは考えるが、深入りしないのは創作上の要請でもある。


多様性分岐にはマイケルという好漢が登場する。同性と事実婚する主人公は子どもが欲しくなり、保守分岐の夫と境遇が重なってしまう。マイケルと同意のうえでセックスして子どもを産み、マイケルには叔父として先々も関与してもらう。夫の心理に深入りしてしまうと、多様性コースのかかる設定がご都合主義に見えかねない。殊にマイケルの性格の良さが。


保守分岐の女は夫と別居の後、中国系米国人と交際し初めてセックスの歓びを知る。彼と言いマイケルと言い登壇する男性は中性的人物ばかりで、その最たるものが去勢された夫である。邪推ではあるが、価値観のカウンターバランスとしての夫のゲイ設定がむしろ価値感の偏移を強化する結果になってないか。保守分岐に母を救わせる筋立ての方が分岐文学としてもカウンターバランスとしても有効に働いていると思う。が、保守分岐の主人公も最終的に多様性分岐に負けないくらいのキャリアに達し、分岐文学らしい宿命論が導かれる。どんな前提であっても遅かれ早かれ人は自分に達する他はない。


この宿命論は分岐文学上、また別の問題を引き起こす。違い過ぎてもいけないが同じ過ぎても分岐の利点が損なわれる。同じならば分岐する意味がない。人の達成が同じになるのなら、マクロを違えなければならない。保守分岐の戦後世界は現実の地球よりもやや良好な経過をたどる。多様性分岐の地球ではなぜか限定核戦争が頻発し、主人公はパートナーもマイケルも放射線障害で喪う。


なぜマクロが分岐したのか。作者はバタフライ効果の一言で済ませる。保守分岐の女は一時期、平和運動に関わっていて、それが蝶の羽ばたきとなった。SFならばその中間を執拗に追って然るべきなのだが。


宿命論が最後は分岐を消失させ結果、認知症になった女はどちらの分岐も認識できるようになり混乱する。これにもオチがなく、混乱したまま終わる。なぜ認知できるのか追及がないのも疑似SFらしい。


と文句を垂れてきたが、文章量が示すとおり今年に入って10冊ほどSFを読んだ中でこれが唯一、好みに合った。加齢のせいでジャンル小説がすっかり苦しくなった。SFはもはや勉強のために読んでるにすぎない。それでも月一冊消化すれば、年に一、二冊くらいは好みに出会えるようだ。