マイクル・フリン 『異星人の郷』

異星人の郷 上 (創元SF文庫) (創元SF文庫)
 中世人と異星人のコンタクト物である。地球にやって来た異星人の方がとうぜん技術的に進んでいるから、これは現代人である読者が異星人に自分を仮託して文明のオナニーをやる話かと思いたくなる。ところが趣が少し違うのだ。主人公である中世欧州人の神父は自然科学の知識が乏しい一方、その人権概念は異星人よりも進んでいると設定されている。近代人のような啓蒙思想で異星人を教化しようとする点では、むしろわれわれは神父に同化しやすい。しかしながら、異星人の近代的な自然科学の知識に対しては、神父は神学的見解で以て拒絶するばかりで、逆にわれわれの苛立ちを誘ってしまう。異星人の方に同情したくなるのだ。オカズが散布してオナニーに集中できない。あるいはオカズが対消滅してしまう。コンタクト物だから文明オナニーだと思ってしまうが、そうではない。異星人との接触人間性を試すイベントなのであり、探求されるのは、この事態に際していかなるパーソナリティがいかにして正気を保てるかという人間観察なのである。
 われわれを苛立たせた中世人の自然観も人間性を試す過程にあっては活かされてくる。解釈できないゆえに事態が不条理に見えてしまい、かえって勇気を試されてしまう。異星人との接触として始まった試練は二段構えに設定されていて、次に彼らを襲うのはペストである。なぜかかる災難を神は許容するのか。中世人の自然観が、災禍の意味のなさを問うお馴染みの課題へと物語を誘導するのだ。もっとも、ペスト物になるとSFである必然性はなくなってしまうのだが。
 意味のないように見える災禍に意味づけを試みる課題も、その解は標準的といえるもので、かかる災難に遭っても人間が正気を保ち得たという記述を以て答えとしている。意味のない世界でも勇気が発現した。そこに意味を求めるのである。ここで興味を惹くのは、ある意味でSFらしい、技術屋に好意的な価値観だ。軍人、職工、猟師が正気を保ち続ける一方で農家は発狂し、宗教家は両者の間で揺れるのである。