『殺人の告白』


 映画『砂の器』が無意識であれ目指したのは、原作に充満する松本清張の怨念を封印することであった。それは、コロンボのようなセレブリティへの怨念であり、かつ相貌のよい若者への怨念である。
 『殺人の告白』では、怨念の提起と封印が同一作品の中で行われている。最初はイケメンのセレブ(パク・シフ)に対する憎悪を駆り立てられ、彼が堕ちようとする瞬間に快哉を覚えせしめられる。ところがイケメンの過去が発見されると、その造形は好意的に再解釈されてしまう。われわれの奥底に眠る、何かに寛大でありたい欲望や人権意識がそこで充足されるのだ。しかし、人物評の劇的な変化には副作用もある。イケメンを追う刑事(チョン・ジェヨン)は最初からイケメンの正体を知っている。ところが彼はあたかもそれを知らないように振る舞わねばらない状態に置かれている。その隔靴掻痒が序盤の救急車のカーチェイスボリウッド映画のような喜劇じみた曲芸にしてしまう。また、すべてを把握する語り手の予断もカーチェイスの空騒ぎに加担する。刑事はイケメンを憎悪する振りをせねばならない。しかし被害者家族に襲撃されたイケメンを、それが冤罪だと知ってるがゆえに、彼は救出せねばならない。まだこの時点で事情を知らないわれわれは、この手加減に引っ掛かりを覚えてしまうのだが、刑事の職業意識がそうさせるのだろうと合理化できないこともない。けれども、刑事とイケメンの苦渋を知っている語り手の叙述にはどうしても熱量がともなってしまう。事情を知らないわれわれにはその力瘤が不可解なのである。
 こうした根性論、あるいは体力志向は真犯人(チョン・ヘギュン)の顛末にも表れている。イケメンの造形変貌で浄化が達成された後、今度は悪役がどこまで矜持を保てるかというサイコパス物の定石が始まる。この精神的な頑強さを問う課題が体力的な挑戦にすり替わってしまう。またしてもカーチェイスなのだ。


 近年のジュゼッペ・トルナトーレ作品のようなジャンル横断の混沌とでも言えばよいのだろうか。社会派スリラーに、ボリウッドの曲芸カーアクションを盛りながら、それでも足りないとばかりに、懐かしのゼロ年代癒し系映画のような痛切な回想が所々で挿入される。殺された婚約者とのありし日々が刑事を苦悶させている。物語の本当の課題が苦悶の克服にあることが見えてくるのだが、やはりそれをぶち壊すような顛末がやってくる。カーチェイスの末に真犯人を追いつめた刑事に、『セブン』を踏襲する形で、語り手は最後のスリラーをやらせる。犯人を射殺するか否かという選択肢の提示である。イケメンの造形を救済した、本作のリベラル(?)な態度を最早知っているわれわれは、とうぜん犯罪者を赦すという形で刑事の救済が行われるだろうと思ってしまう。この予断をぶち壊してしまうのが、如何にも韓国映画らしい情熱なのである。ただそれをやってしまうために、イケメンを通じて提示されたリベラル(?)は何だったのか、という矛盾は否定しようもない。あの啓蒙性はいったいどこへ行ってしまったのか。本作の集中力のなさが活かされてくるのはここからだ。可換に富むがゆえに啓蒙性が、赦しとは異なるまた別の形で再現されるのだ。出所した刑事は、イベント進行の阻害要因であり続けた逆噴射遺族家族に迎えられることで、恋人の死を受容しようとする長い旅を終える。赦しではなく疑似家族の構成が課題の解となったのである。