村の飢饉に際した地主の男はその窮状を救うべく妻と知人に相談を持ちかけるが相手にされず、独りこじれる。妻と男の仲は冷え切っている。男には未練があるのだが、女は夫を憎悪している。夜、夫が自室で悶々としていると、階下から喧騒が聞えてくる。夫を放置して、妻は自分で慈善団体を組織して寄付を募っていたのだった。
この物語では、作中人物に対する受け手の好悪が夫と妻との間を往来する。夫の善意を無視し、かつ彼を慈善から締め出す妻にまず読者の憎悪が誘導される。夫の方も激高し、翌日、妻を難詰するも彼女は頑なである。貴方には慈善の資格がないと拒む。自分に冷淡な女に男が焦がれている事情も相まって、この段階では妻が主導権を握っている。ところが、せめて芳名帳を見せろと夫が迫ると妻は一転して泣訴する。自分から生甲斐を奪わないでくれと。専業主婦である妻には自己実現の欲求がある。語り手は彼女の人生の課題を明確にさせることで、受け手の同情と共感を引き寄せようとしている。更に、哀訴に対する夫の反応も妻への好意と夫への憎悪を促進する。ここで引き下がればいいものを、夫は明細を調べるや、妻の実務の才の乏しさをネチネチと指摘する。妻がなぜ夫を憎悪していたのか。その理由が具体化するとともに、夫の機能的な側面も浮かび上がる。あるいは、妻の人生の課題は受け手の共感を呼び寄せるとともに彼女の無能をも露わにする。それぞれの個体内において好悪が互いを打ち消し合って一幕が終わるのである。
これは、『退屈な話』がそうであるように近代化の希求とその限界の物語である。『退屈』は、村に文明をもたらそうと試みた娘が村八分に遭い、村落を憎悪するようになる話だった。本作では、夫の課題を探求するうちに近代化の問題が現れてくる。人生を無為に消化するという妻の人生の課題を明確にすることで、彼女をキャラ立てした物語は、次に夫の抱える根源的な、しかも彼自身が気づいてはいない課題を発見しようとする。それが近代化という課題なのである。
諍いの明くる日、打ちひしがれた妻に夫は問う。なぜそんなに嫌うのか? 妻は罵倒する。
「この法匪野郎」
曰く、男の慈善には矛盾がある。飢饉に心痛しながらも貧窮の余り盗みを働いた小作人は訴える。ところが夫はこれを矛盾だとは思わない。近代化とは行政を浸透させることであって、長期的には近代は村落の救うはずだ。
妻の才気は夫の課題を言語化することで表現され、その無能の属性は無効になる。彼女は才気の面で夫と対等になる。夫もようやく明瞭となった課題に対処を迫られることで、造形の変貌に着手することができる。要は、慈善に関する長期的展望と短期的なそれが軋轢を起こしている。そこで夫は清算主義の自棄に身を任せ、その解決を見出そうとするのだった。慈善のために破産することを決意した彼は、売り物を求めて屋敷を彷徨う妻を眺めてようやく安らぎを得たのである。
彼はかくして冒頭の妻への憎しみへ正当に回帰している。あるいは、彼女の体現する価値観に一矢を報いるのである。妻をようやく破滅させることができるのだ。自らを滅ぼすことによって。