『HiGH&LOW THE MOVIE』


 一見には琥珀さんがわからないのである。シリーズからは独立した、自己完結した物語として本作を観察してしまうと、三十半ばになっても族を引退しないヒゲのオッサンが精神的支柱を失ってオロオロしている何とも貫録のない話になってしまう。琥珀さんの慕われ様が不条理に見える。
 このわからなさは、あくまでシリーズを踏まえない受け手にとってのそれであると考えてしまえば割り切ることはできる。ところが結末で判然となるのは、琥珀さんのわからなさが然るべく設定された謎であったことである。これは琥珀さんを知る物語であって、彼の不可解な行動の解釈が課題となっていた。ひとつの独立した話として完結しているのである。103分目で、ついにありし日の琥珀さんの回想が始まるのだ。
 「シケた顔してんじゃねえよ」
 「お前といっしょに走りてえからよ」
 口惜しくもうれしい。これまで散々に琥珀さんの小物振りを見せつけられてきたわれわれとしては屈したくないのである。ところが体は勝手に例の「琥珀サァーン!」モードに堕ちてしまう。小物として描画されてきたからこそ、それに屈することに背徳感が生じる。
 本編での小物な印象は回想になっても拭えない。思い出の中でいくら琥珀さんが父権を振りかざしても、やはり小物である。しかし、無理をしている様子が窺えるからこそ、君主の徳というべき魅惑が琥珀さんから漏れ出でてしまう。父権の属性のないものが立場ゆえにターレンぶらねばならない痩せ我慢が、われわれや手下を惹きつけるのである。これは琥珀さんのやせ我慢が決壊する話だったのである。
 
 『HiGH&LOW』が叙述する抗争はサハラ以南の部族社会のそれと何ら変わることはない。時代錯誤な反近代賛歌である。だが、琥珀さんを怨念の連環から解放する課題に物語が取りかかると、琥珀さん個人の課題がホッブス的状況からの解放という社会的な課題と一体化して話が普遍化する。
 「自由に走れ」
 あろうことか琥珀さんの人生がわたしの人生と重なったのである。
 人生は偉大だ。加齢は素晴らしい。こんなサハラ以南のごとき猿山の抗争にすら人生の符牒を見出せるのだ。