涙を湛えて微笑せよ

 男も女も互いの面識を失っている。にもかかわらず、愛の実効が二人の間で再現されてしまう。その際、恋が宿命であったことの強度は記憶喪失の度合いの関数である。記憶がないほど宿命的になる。
 『明日の記憶』では、女についての記憶を失っている男は改めて彼女に恋をすることで、愛の強度を明らかにする。一方で女は男のことを覚えているので宿命の感には欠ける。
 『君の名は。』になると女の記憶も希薄になるため宿命の度合いは高まる。ただ、男女とも完全に記憶を失くしたわけではなく、記憶を失くしたという記憶はあって、互いになんとなく互いを認識できてしまう。
 男女の記憶欠如をさらに進めて、完全に面識を失わせると『未来からのホットライン』となる。二人は互いを知らない。にもかかわらず二人はやはり出会ってしまう。



 記憶喪失を徹底させない『君の名は。』の、ある意味で商業アニメらしい妥協は、放映版の『魔法少女まどか☆マギカ』のそれを思わせるものだ。そこでは、事件は主人公の自己犠牲によって解決する。自己犠牲は主人公が忘却されるという形をとるが、やはり希薄な記憶は周囲に残置されてしまう。自己犠牲に悲壮さがそれで随分と緩和されてしまう。
 自己犠牲ではないものの、周囲の集団忘却に主人公が巻き込まれる『ONE』では、ヒロインによって主人公に対する記憶にムラが出てくる。この物語では逆に覚えていることがヒロインの立場を特権化する。覚えていることで、主人公の消失に立ち会えるということもある。試練が主人公からヒロインへと伝播するのである。



 『まどか』の忘却の半端さが気になるのは、『serial experiments lain』の存在が個人的には大きい。ヒロインが忘却されることで事が片付くというモチーフを両作は共有している。しかし玲音の方が忘却される度合いははるかに高い。にもかかわらず彼女は平然と事態を受容してしまう。
 数年前『lain』を再見したとき、冒頭の世相の暗さの如何にもな感じに不安を覚えた。黒沢の『大いなる幻影』を再見したときもそうなのだが、この暗さは自殺者を激増させた当時の経済難の反映であって、今日では通用しない時事ネタに物語を見せかねないのである。なお、『ONE』の発売と『lain』の放映は98年である。『大いなる幻影』の公開はその翌年である。『幻影』もまた忘却の縁にある主人公男をヒロインが覚えていると解釈できる話である。
 『lain』の再見に話を戻すと、話数が進むにつれて大林隆之介への移入がはじまり、この時事ネタ感は薄れてきた。玲音が娘のように思われてきてしまい、むしろ加齢という今現在の個人の問題に直面することとなった。ところが、終盤になると玲音と完全一体化したのである。最終話に至っては、本放映よりもはるかに感激を覚え落涙した。誰からも忘れられても泰然と微笑を浮かべるこの娘にわたしは自分を見出したのである。わが人生がそこに描かれていたのだ。


 『君の名は。』の結末に違和感があるとしたとき、ハッピーエンドゆえに苛立つとなれば大人気ないだけなのだが、恋が成就するのはよいとして、そのアプローチが直球過ぎるがゆえに違和感が生じている可能性は検討されてよい。前述のように、わずかとはいえ記憶が残っているために恋の宿命と希少性が両立できていない。ではどういう解決があり得るのか。
 『君の名は。』の最後は、結論は違うとはいえ、秒速の変異体である。そして秒速は、ある一面において『(500)日のサマー』と結論を共にしている。自分の甲斐性を上げる以外に恋の成就の途はないという解答が出て、ジョゼフ・ゴードンが就活を始める。われわれはここで、タキくんが就活に勤しむ『君の名は。』の終盤を思い起こしていい。ジョゼフは同じく面接にやってきたオータムを口説く。タキくんも同じことをやればいいとわたしは妄想する。『未来からのホットライン』のモチーフとの接続である。タキくんも三葉も互いに対する記憶は完全に失っている。にもかかわらず、タキくんは三葉を口説いてしまうのである。