メアリ・ロビネット・コワル 『宇宙【そら】へ』

宇宙【そら】へ 上 (ハヤカワ文庫SF) これは一般小説であって、作者もそのつもりなのだろう。それを宇宙開発SFのつもりで手に取ってしまったのでまことに厳しいことになった。最初から一般小説として読めば、話の大半を占める夫婦漫才とガールズトークに違う印象を受けたのかもしれない。しかしジャンルSFと見てしまえば、これらは筋の進行の妨害にしかならない。夫婦漫才の中身は惚気である。あまり筋とは絡まない。ガールズトークの内容は男性社会への批判である。これは確実に筋に絡む。絡むからこそ余計に厄介な問題を引き起こすのである。
 創作のお約束として、たとえばスペンサーシリーズが殊更にマチズモの相対化を試みるように、最終的にその思想に話が準拠するとしても一旦はキャラの抱くそれを相対化する必要がある。本作も一応、この手順を踏む。ヒロインは教官の目の敵である。元軍人の教官は女性の宇宙進出を阻もうとしている。ところがヒロインが気づく件がやってくる。教官の辛辣さには理がある。すくなくとも科学的に根拠のない振る舞いはしていない。
 すわG.I.ジェーンか、とわたしなどはここでキャーである。教官は”教官”か。ヴィゴ・モーテンセンか。「自分を惨めだとは決して思わない」か!
 ここまで極端ではないにしろ、本作は教官を立てようとすることでヒロインの思想を相対化しようとはする。
 教官には弱みがある。戦傷の後遺症が出てしまい、これが人に知れると宇宙へいけなくなる。ヒロインにも弱みがある。彼女は精神安定剤を常用している。ヒロインと教官は互いの秘密を知り力関係を均衡させる。が、教官は自ら後遺症を申告して宇宙に行けなくなる。かつ、ヒロインの尽力を認めその弱みも公にしないという。
 教官は男前になった。しかしこれが厄介なのだ。
 G.I.ジェーンではヴィゴ・モーテンセンの男前が上がることでデミ・ムーアの評価が堕ちることはない。むしろ彼らは正の相関にある。
 本作では逆である。教官の男前を上げてしまうとヒロインの評価が下がりかねない。教官は私欲で宇宙計画を危うくする事態に耐えかねて自らドロップアウトした。ではヒロインはどうなのか、という疑念が出てしまうのだ。このままでは彼女が狡猾に見えてしまう。
 作者にも自覚があったらしく、続く場面でヒロインの宇宙進出が決まると、一転して教官を妨害役に戻してしまう。結果、教官の造形が一定しなくなり、あの映画版の綺麗なジャイアンは何だったのかという、尻が据わらない読後感となってしまった。