みじめさを抱きしめて 『フレンチアルプスで起きたこと』


ここで描画される雄の危機、つまり男としての自信の喪失には解釈の余地がある。標準的な教科書の見解に基づけば、雄の逃走は勇敢さの強度とは関連がない。単に勇敢さを振るう状況ではなかったのである。


雌には雄にない確証がある。夫は不明であっても、子どもが自分の血を引くことを彼女は確証することができる。雄にはこれが解らない。少なくとも現代に至る雄の習性が形成された石器時代においては。


生殖にかかるコストも雌と雄とでは差がある。妊娠すると10か月間、雌は生殖活動ができなくなる。雄にはそのコストがない。追加的な生殖活動を試みるコストが低いため、子どもの損失について雌よりも彼は冷静になり得る。ではなぜ、彼はあそこで雄の自信を喪失したと感じたのか。勇敢さが発現しなかったことを悔やむのか。


勇敢さが発現しないと何が問題となるのか。非力な雄は雌に選ばれず、生殖行為の機会を失ってしまう。つまりここで夫は妻との追加的な生殖活動を望んでいるが、勇敢さが発現しなかったためその機会を失おうとしている。しかし一方で、彼には子どもが2人いて、すでにその女との間では生殖活動は達成されている。彼の勇敢さは過去の機会に発現していて、それゆえに彼は雌に選ばれたのである。勇敢さがないわけではない。やはり発現しなかっただけなのだ。


これが一度でも生殖活動を達成できないでいる雄であったならば、課題は根源的となり、雄としての自信が問われるのは自然である。その雄の場合、勇敢さが先天的に欠ける可能性がある。だが、作中の男の場合、そうではない。彼が追加的な生殖を妻に望むのは、新たな相手を探索するよりコストが安いからである。だが加齢によって、遠くない未来に妻は生殖不能になるだろう。夫は無意識にそれを知っているから、勇気はおのずと発現しなかった。怯懦は雄の資質の問題ではなく環境依存であり、男には責任がない。この時点で課題のボールはむしろ女の方にある。自身の加齢のため夫を子育てに拘束できない。あるいは、この男を選んだ自分の選択は正しかったのか。


ここで女性の課題を焦点化するのはひとつの手ではあるが、どちらの課題に言及するにせよ、それは普遍的な興味になりえないだろう。男性の受け手にはこの雌の課題を自分のものとすることはできない。逆もまた然りである。課題は性差を超える必要がある。


あの野小便がいい。尿意を催した女はゲレンデでおもむろにパンツを降ろす。放尿で弛緩する顔。そして彼女は遠くに夫と子どもらの姿を認めて落涙する。


社会小説のような、主題優先の人造的な話である。理念的にキャラクターが構成されているから、教科書に参照してキャラの心理の可否を論じることができる。しかしまた、作為はみじめさを文脈から剥離することもできる。みじめさを抽出して、それ単体で愉しめる挙動にすることもできる。妻の野小便は性差を超えた普遍的なみじめさに至っている。男女問わず小便をせねばならないのである。


主題に限らずホテルの美術もキューブリック調というべきか、いかにも人為的な有様である。しかし美術の作為も、われわれの想定を超えた意味を持ち始める。作中では、主題優先ゆえに雄の勇気を試すイベントが頻発せずにはいられない。ところが、あまりに頻発するために、事は雄個人の属性の問題というよりも、またしても社会化してしまう。ホテルの安全管理の杜撰さが課題だとしか思えなくなってしまうのである。われわれはこの異常な建物にひとつの人格を見出すのだ。その意味でやはり『シャイニング』というか、キューブリック節である。