宿命を知る 『ちはやふる』


広瀬すずは美人である。最初のつまずきはそこである。劇中でも美人であるとはっきり言及されていて、彼女の課題設定に負の影響を及ぼしている。美人の時点で課題が消失しかねない。このことは語り手も自覚していて、美人であることを無効にするための描画が冒頭で幾度も繰り返される。変顔をさせたり等々。しかしもっと人生に関わるアプローチから美人の無効化が図られるとき、本作は同じ青春劇である『桐島、部活やめるってよ』と課題の様式を共有する。非進学校の閉塞感であり、未来の流動性のなさである。


この舞台が非進学校であることは、たとえば肉まんが机を勧誘するとき、進学校に敵愾心が示されることからも伝わってくる。すずは自分にはかるたしかないと悲痛の叫びを行って、課題を決定的にする。進路が閉ざされた感じはすずが美人であることの万能感を損なわせる。このひとは実はかわいそうな人じゃないか、と受け手に優越感を抱かせる形で彼女の課題の設定が終わる。すずへの恋慕が露見して、視点が野村周平に完全に移行するのだ。


すずをめぐる三角関係が始まると、犬童版の『タッチ』に似てくる。野村周平視点なので彼の課題が焦点となる。真剣佑に能力が及ばない彼には、オスの普遍的問題が突きつけられている。すなわち仕事ができないオスにメスは惹かれない。ではどうすればよいか。これを問われた國村隼の答えはカルヴィニズム的である。またこの答えは『桐島』で提示された課題に対応するものでもある。「なぜ頑張るのか」と『桐島』は問う。國村にいわせればそれは宿命を知るためということになる。


偏差値で能力が可視化された状況に置かれた受験経験者にとって、ここでいう「宿命を知る」はよく知られた現象である。天与の資質によって偏差値の天井が規定されている。そこから先はどんなに時間をつぎ込んでも進めない。個々人にはそういう宿命が設定されている。だからといってこれが人間のインセンティブを減じることにはならない。とりあえずやってみなければ、宿命を知ることすらできないからだ。


國村は、真剣佑に能力が及ばないからメスの気を惹けない問題を細分化したといえるだろう。宿命を知るつまり能力の限界を試してみるという、やる気を煽る方策が取られたのである。



ここでとりあえずの野村周平の課題の処理が終わり、同時にそれは短期的な解決を見る。頑張るオスはメスの気を惹く。すずがメス顔を野村周平に向けるようになるのだ。したがって物語の視点が今度はすずの方に移行して後半になる。が、物語が展開上の壁にぶち当たってしまうのはここからである。わたしたちはすずのメス顔に自分を入れてくれるクラブに入りたくない感覚を抱いてしまうのである。そもそも野村周平はこのメス顔のどこに惚れたのか。


今一つ、もっと根源的な問題も持ち上がる。なぜ頑張るのか。オスにとってこの答えは自明である。メスとセックスするために頑張るのである。ついでに頑張りの副産物として文明が興ったりする。ではメスはどうなのか。彼女は何のために生きているのか。それは犬童版『タッチ』がたどりついた結論でもあって、全盛期の長澤まさみですら甲子園には行けないのである。



後半になりすずの視点になって、このメスの空虚さが前面に出てしまう。後半冒頭で真剣佑と再会したすずは野村周平に対して呈した同じメス顔を彼に向けて、われわれを憤慨させる。これではただのさかりのついた雌豚である。この女を取り合う男二人にとって課題は存続しているのだが、この女に人生の課題を設定しようにももはや何もない。ただ卑近の課題を解決すべく右往左往するだけでなく、女の魅力を描画し損なうことで男どもの課題すらも軽くしてしまう。こんなビッチもうどうでもいいじゃないか。萌音や茉優のほうがワシはええ。