『イエスタデイ』 Yesterday(2019)

ビートルズなくとも歌謡曲が現行の形になり得たと想定するのならば、ビートルズの影響を過小評価することになりかねない。ビートルズなくともそれを踏まえた楽曲群が存在する世界にビートルズを持ち込んだとしても、劇中ほどのインパクトをもたらせるのか。音楽史的には無理があるにせよ、ビートルズのいない21世紀に来てみたら未だロカビリーが流れているような極端な戯画化を試みた方がより話の趣旨に適ったのではないか。要は話から体系が欠如している。


男(ヒメーシュ・パテル)がアマデウスなら自分はサリエリだとエド・シーランはいう。しかし終盤に男が会いに行くのは70代になったジョンであるからいささかズッコケるのである。アマデウスだったらポールが妥当だろう。むろん、ジョンでなければ感動がないのだが。


体系の欠如の最たるものがリリー・ジェームズ(カワイイ)である。絵に描いたようなこの文系殺しに男は好かれまくっている。才能のなさに打ちひしがれた男が音楽活動の断念を表明すると、リリーは目をキラキラさせてワナビ活動を奨励する。


回想がある。中学の文化祭。オアシスのコピーをやる男を舞台袖からメス顔全開の少女(すごいカワイイ)が熱い視線を送っている。何という都合のよさ。何という邪念。しかしこの邪念は男に真の課題を突きつけている。これは邪念を克服して無私に至る物語なのだ。


劇中で幾度も疑義が呈されるように、都合のいいこの女の攻勢を前にして、男の腰は十数年にわたり引け続けている。才能の欠如にオスとしての自信が奪われている。女に音楽活動を強いられるほど、男は才能の限界を思い知りオスとしての自信を失っていく。


ビートルズのいない世界になったところで、このジレンマは拡大するばかりである。どんなに熱狂されても自分の才能ではない。しかし男はコピーの流布を止めるわけにはいかない。自分だけが覚えているのである。自分がやらなければ本当にビートルズは消滅してしまう。


この構図はトリュフォー版の『華氏451』を思わせる。自分だけが覚えている。この希少性が人を義務感で駆り立てる。あるいは、他者の言葉だからこそ自分を表現できてしまう。その逆接の貴さ。女に袖にされてしまった男の悲嘆が詩と同期してしまう。


盗作の後ろめたさは義務感にカウンターバランスされオスの平衡を得た男は、いよいよ女とのセックスを試みる。ところが今度は女の腰が引けてしまう。セレブになるな。西海岸から戻らないと番わないと従来の言動を翻す。


この女は何なのか。男をダメにする手合いなのか。それはともかく、新たなジレンマが生じる。西海岸に留まらねば、男に自信をもたらした義務心を全うできなくなる。だが、それは本当に義務心なのか。名声を欲する邪念の名残があり、それを女に嗅ぎつけられたのではないか。


ジョンの件の意味がここで分かってくる。if 物の構想を利用しながら、ビートルズの欠如が音楽シーンにあまり影響を与えていないように、別の可能性が開ける感覚が本作には乏しかった。男の活動は穴埋めに終始して後ろ向きである。遭難せずに人生を全うしつつあるジョンが初めて世界改変の可能性を示唆し、男の活動に公共概念を与えるのである。彼はようやく無私に至り、名声を捨ててビートルズパブリックドメイン化する。


ワナビを強いながらセレブを止めろと求めてくる女の言動は首尾一貫している。正業に就くと宣言する男に未だ未練が残ることを女は見抜いている。本当に諦めるためには真っ白な灰になるしかない。灰になるには我を捨てるしかない。男は消化不良である。燃やし尽くすためにこそ女はワナビの続行を強いた。我を捨てさせるためにセレブになった男を嫌悪した。自分の限界(宿命)に至れと女は端的に言っていたのである。


かくしてこれは宿命を知った男の物語である。エピローグで描かれる男と女の顛末は宿命を知った人間たちの安らぎで充溢している。それが底抜けに明るいからこそ、安らぎの含有する一抹のさみしさが抽出される。