泣訴する父権

私的所有論所有権とは処分権である。自分が作ったものは自分が処分していい。自殺が禁忌とされるのは、自分は自分の創作物ではないからである。自分の出生に自分は関与していない。自分には責任がない。責任がないから恣にしていいと考えたくなるが、所有権の概念は逆に解釈する。自分は自分の物ではないからこそ好き勝手にできない。


コレクターにとって収集品は所有物ではなく滞留物である。あくまで一時的に彼の下に留まるものであり、やがて再度市場に放出され別のコレクターに収集されるだろう。彼が収集品に支払うのは所有の対価ではなくサブスクリプションである。自分の物ではなくクラ交易のように人々の手に渡っていく。だからこそビブリオマニアは蔵書をグラシンで包みはじめる。所有概念を捨てることで個人を越えた大きな体系に参画できるのだ。


自分の身体を自分の所有と見なさなければ、人は健康狂になる。借り物であるから濫用してはいけない。粗末にしてはいけない。今この身体は未来の自分という他人に無傷で引き渡さねばならない。


自分を所有するのはそもそも誰なのか。自分を作るという決断をしたのは自分の親であるから、所有権の概念下では所有権とそれにともなう責任は親にある*1。中絶が条件付きで殺人にならないのは、所有権の痕跡だと解釈できる。


以上を踏まえて『宮本から君へ』(2019)を検討する。


恋人を犯したサイコには強姦の責任がない。サイコとして出生する過程に自分自身は介在できないからである。出生の決定に関わるのは父親であるピエール瀧であり、彼にこそ責任がある。所有権には処分権が付帯する以上、瀧が息子を退治するべきである。むしろ、彼は父権的人物とされるから、退治せずにはいられないはずだ。処分できてこそ所有の実感が得られるのである*2


作者は父権が退治を欲望するメカニズムを意識するがゆえに、理由をつけて父権の行使を妨害する。瀧が退治してしまったら話がそこで終わってしまう。瀧が宮本を聴収する喫茶店の場面は綱渡りである。何かが破綻しようとしている。作者はそれに気づいている。宮本は息子の犯行をいわない。確証が取れないから瀧は退治できない。しかしこの理屈の綱渡りに気づいている作者は宮本にあえて突っ込ませる。宮本が言えないことにつけ込んで、瀧は真実から目をそらしている。佐藤二朗は瀧の立場にフォローを入れる。出てくるのは親の情というワードである。これ以降、話は瀧に対して同情的な立場に終始する。


所有権の概念を適用すれば事態は転倒している。親のエゴに依拠するならば退治しないほうがつらい。退治こそ自然の衝動であり、親の情でありエゴに基づく行動である。退治せねば父権が充足しない。退治せねば子に対する所有権を放棄することになる。父権にとってこれほど耐え難いことはない。


父権を維持すべく瀧は息子の退治にかかるが本気を出せず逆にボコボコにされる。彼は父権の重さに耐えかねていたのだった。息子退治に手を抜いてしまう‟親の情”とは助けを乞うアピールなのである。宮本もまた父権を所持したと知った瀧はようやく父権を手放す決意に至り、息子を宮本に売る。瀧を動かしたのが父権者の連帯感だとすれば、父権はある程度は互換することになる。所有権を放棄することで瀧はより大きな父権の体系へ包摂されたのだ。

*1:したがって、交配に偶然的要素が介在するほど、逆に所有の実感は薄れることになる。

*2:「奪われるくらいなら破壊した方がましだ!」