『ミスター・ガラス』 Glass(2019)

最初に筋を運ぶのは卑小な感情にすぎない。女性精神科医サラ・ポールソン)が妄想狂のオッサンたちを収監する。この図式では、キャリアに対するノンキャリの憎悪と女性に対するオッサンの嫌悪が援用され、受け手はサラの退治を願望するよう誘導される。加えて、サラが妄想とするのはおたく趣味であるから、彼女はおたく趣味を糾弾する世間へと読み替えられ、受け手の憎悪はますます解像を得てしまう。


憎悪が多重の感情で構成されるように、退治の過程でもフラストレーションのタメが段階を踏んでに設置される。オッサンらを妄想狂とするサラの客観視と知性が憎ければ、その裏をかいて事を進めるサミュエルの知性には溜飲が下がる。その割に、あっさり捕縛され知性を矯正されるサミュエル。これが一段目のフラストレーションのタメである。謎の矯正マシンにはあらかじめ細工が施され、捕縛は意図であった。が、その割に脱出したオッサンたちは簡単に捕殺されてしまう。これが2段目のタメである。捕殺は誤算ではなくスーサイドアタックであった。手遅れを知ったサラが悲鳴を上げて大団円だが、ここに至り彼女に対する憎悪は中和されている。彼女を当初よりは憎めなくなっている。


サラもまた妄想を信じるからこそ、オッサンらには事を妄想だと思わせる必要があった。彼女こそ真性のオタであるならば、世間への憎悪がまず消失する。サミュエルは勝利したとはいえ、身を引き換えにした達成であるから、溜飲には留保がつく。政治的な正しさと女性嫌悪の全うとの兼ね合いが憎悪を中和している。


バトルシーンにもこの手の問題がある。殴り合いに込められる感情はでかい。サミュエルは不具に生まれた人生を呪い、ジェームズ・マカヴォイは虐待の記憶に苦しんでいる。しかし、戦いの物理的様相はオッサンたちの小競り合いにすぎず、感情と状況のズレがややもすると如何にもシャマランらしいオフビートの笑いで受け手の注意を散漫にする。


話の構造自体は少林サッカーに似ている。状況を感情に追いつかせるには、妄想を他人に共有させ一種の社会インフラにすべきである。オッサンたちの妄想は、他人にとっては夢であり希望だった。サミュエルの知能は母子の絶望の人生に意味を与えてきた。マカヴォイの馬鹿力は少女を窮地から救った。


不具の人生には意味があるはずだ。いやむしろ、意義を与えればよい。観察された信仰の有様はやがてフィクションの効用を巡る議論にも接続し、憎悪をオタク恨み節というドメスティックな感情から解き放つ。世間への引け目から逃れるべく、妄想が他者に効用を与えた証拠を作り手が希求するのだ。