動機主義と功利主義

海外暮らしの私にとっては、一時帰国のたびに、老人の多さ(そして態度の不遜さ)と、子供や若者の少なさ(そして小さくなっている姿)が目に留まり、悲観的な気持ちになります。(秋元,2022,234)


いまを生きるカント倫理学 (集英社新書)不遜な老人を嘆ずる作者の所感をまずカントの考えに基づいて検討する。老人には不遜な態度を出すにあたって選択の自由があった、つまり不遜ではない態度も可能だったと想定するなら、作者の嘆じはカント的に正当である。たとえば、人種的偏見が心に浮かんだとしよう。カントはこれを罪としない。浮かび上がりには当人の制御が及ばない面があるからだ。非難されるべきは浮かんだ嫌悪を表に出す営みである。感情を表に出す出さないの裁量は人間にあるとカントは考える。ゆえに、老人が不遜な態度をとるにあたり選択の自由がなかったとすれば、老人への嘆じは留保すべき立場になる。嘆いてしまうと老人に瑕疵を帰する立場だと受け取られかねない。


老人の不遜な態度は老化による器質性によるものであり、態度の表出に当たっては人が考えるほどには自由がなかった可能性は想定される。器質説に立てば、不遜な老人は嘆きや嫌悪ではなく慈悲の対象である。テクニカルには医療福祉の対象であり、自然災害である。慈悲の対象と見なすならば、冒頭のような所感は出てこないだろう。


カント主義の立場から検討すれば、人を物扱いする点で器質説こそ冷酷に見える。器質説にはカント主義が根性論に見える。


カント主義者である作者は功利主義者シンガーの立場に懐疑的である。功利主義は不幸の総量を減らそうとする。肉食をやると殺される動物の恐怖感で不幸の総量が増加する。シンガーは自分の理論に殉じて肉食をやらない。


作者はベジタリアンに偽善の疑いを向ける。少なくとも菜食は現実的な方策ではない。現代人の生活環境は動物由来の成分なくして成立しない。肉を断っても動物の犠牲は避け得ない。作者の立ち位置は漸進的である。肉食か採食の二者択一ではなくより現実的な立場があるはずだ。


功利主義者は不幸量を抑えるために動物愛護を訴える。カント主義は人権侵害の連鎖を恐れて動物を愛護する。動物を虐げるものはやがて人間をも虐げるであろう。シンガーさんはお肉を完全に絶った。肉好きの作者は現実的立場から週一の肉断日を設定する。誰もがベジタリアンになれるわけではない。現実にできる小さなことの積み重ねでこそ倫理は成立可能になる。


東條首相の算術(2+2=80のアレ)は悪しき精神論の具体例として言及されるのが普通である。この公式には続きがあり、ヒデキ自身が「2+2=80」はあり得ないと否定する。敷衍すると次のような趣旨である。それはあり得なのだが、各人がそれぞれの持ち場で工夫すれば1+1が2.000001くらいにはなるだろう。これらが積み重なってやがて2+2=80になるのだ。


話を戻す。


作者の漸進的立場は冒頭で検討した老人に対する作者の反応と相容れないように見える。老人の態度はカント的道徳観にそぐわないのか。それとも器質的現象なのか。簡単に割り切れないと解するのが現実的立場だろう。老人への嘆じは老人に瑕疵を認める嘆きと解せる以上、漸進的立場の一貫性を危うくする。


肉の次には鶏卵が話題となる。動物保護の現実的施策として作者は野外飼いの鶏卵を買うようにしている。ここで問題となるのは、ケージ飼いの鶏卵しか買えない貧困層をどう見るかである。皆が野外飼いの鶏卵を買うようになれば、ゲージ飼いの業者は撲滅され、動物の飼育環境は改善されるだろう。この議論に、コストが下がり貧困層にも野外飼いの鶏卵が買えるようになる的な含意はないように見える。


本書には一か所だけ「ネトウヨ」という語が括弧つきながら登場する。括弧つきだとしても蔑称を用いる営為は発言者の学術的信頼性を損なうものだろう。


ケージ飼いの鶏卵しか買えない貧困層への無言及と「ネトウヨ」の不用意さ。中東難民と接してはインテリの多さに驚き、ドイツ人に英語で話しかけられるたびに苦痛を覚える。これはエリーティズムではなかろうか。


功利主義批判の議論にも受け入れられない箇所がある。


不幸や幸福は厳密に計量できないから功利主義には無理がある。この議論は理解できる。しかし用いられる例示が感情的に受け付けない。曰く、殺される動物の恐怖の総和よりも肉食がもたらす幸福の総和が大きい場合がある。


理屈ではこれはあり得る。一頭の肉で複数人の肉食の需要は賄うる。一頭の恐怖と複数人の食事の幸福は拮抗するかもしれない。感情的に言えば、死の恐怖と肉を食べる喜びが比較できるわけがない。質が違う。功利主義もこの感情に対応した検討をやっている。たとえ少数であっても、恐怖がある閾を超える場合には比較が無効にされるとする議論がある。この例は功利主義を批判する文脈で使うには無理があるのだ。しかしこれがわからないとすれば、本書の動物観は相当クールなのではないか。お肉を断ったシンガーさんと週一の肉断日を設定する作者の対比にモヤモヤが生じる所以であろう。


後書きに出てくる同業者への提言も容赦がない。自分の研究する理論がすばらしいと信じるのなら、その理論に則して生きることができるはずである。できなければどこかおかしい(たぶん理論が)。


わたしの立場は寺尾文学である。作者とは逆である。できないからこそ理想を掲げるのである。できないからこそ理想と呼ばれるのだ。できるのであれば掲げる必要がない。


自殺の議論で塩狩峠と小カトーに言及がある。暴走する客車を止めるべく鉄道員が身を投じる。こんなことができるはずがない。しかし誰にもできそうにないのならば、鉄道員の奉じた理想には欠陥があるのか。もし飛び込めというのなら容赦がなさすぎる。


小カトーに仕えた人々は彼の超人的な徳高さに打ちのめされる。理想はわかっていてもそれを実行できな人間の弱さ、くやしさ。手に届かない理想はこの人々のために掲げられる。暴走するトロッコに身投げなどできない。しかしその千分の一くらいの勇気は振り起せるかもしれない。理想が人々を励ますのである。カントでもフィヒテでもヘーゲルでも、あるいは功利主義者のシンガーでも、読めば人類に対する励ましと同胞愛を覚える。本書に通底する冷たさは不可解である。理論に則して生きろとする提言は本書の現実性向と整合するのだろうか。


すべては氷河期勝ち組心理の露呈かと放言したくなるが、そうではないだろう。哲学と文学で相違する世界観が違和感の理由と思われる。


自然の衝動はやむを得ない。しかし人の力で衝動の表出をとどめることはできる。この議論においてカントは可変的な課題を扱い、自然という人の力が及ばない現象には手を出さない。文学はその不変要素に対応する。理想を実行できない人の弱さに身を寄せるのである。