『ボーイズ・オン・ザ・ラン』(2010)

 なぜダメな自分が愛されたのか。女の器質に根拠があった。女は恋愛体質である。その愛は無差別であるから男の性能は問われなかった。ところが女の器質は物語の根本的な動機を掘り崩しかねない。男は成熟したオスになって配偶者を得たい。だが、女の無差別な思慕が成熟の可否を問わないのなら、成熟しても意味がない。成熟したオスたる松田龍平の投入も大したショックにならない。何かのはずみで思慕が恢復されるかもしれない。
 男には別の苦しみがもたらされる。通例ならば損切りして前に進むべき事態である。しかし女の恋愛体質が期待を持たせてしまう。可能性が思慕を駆り立て損切ができなくなる。オスのジレンマが成立するのだ。つまり、未練があると先に進めない。が、失恋が未練を残さないとすれば、オスは頑張らなくなる。成熟を目指すことはなくなる。
 オスの実存を観測する立場からすれば、男がボクシングを志した段階で話は早々に完結している。未練と成熟のジレンマには結果が問われない救いがあって、目的は達せられずとも頑張りさえすれば、ジレンマのストレスが緩和される。この辺は女の無差別な恋愛体質と呼応している。
 むしろ最後まで残るのは女の課題である。最後に金色夜叉された女は自然に恣にされる自分を嘆くのである。
 モテを女の器質に依存する話は、オスに原因がない以上、彼の実存に迫れない面がある。HMX-12マルチを思い起こそう。あの話では藤田浩之に愛の原因はなかった。マルチの思慕が無差別だから、彼女は人を愛すように造られているから、浩之はモテるのである。だから物語は浩之がマルチの人生を目撃する体裁となる。自分を恣にする自然にマルチがどう立ち向かったか。最後に問われたのは女の課題だったのである。