『花束みたいな恋をした』(2020)

 性格の一貫性について不審な点は間々ある。別れを切り出す土壇場になって、冷め切ったはずのふたりが感情を取り戻してしまう。それだけ盛り上がる余力があるなら、別れる理由が消えかねない。あえて回想で盛り上がるのなら、別れた後に持ってくるのが定石のだろう。が、告別の場面を劇的にしたいがために、性格の一貫性はスポイルされる。もちろんエクスキューズはある。まだ脈があると的確に判断して、菅田将暉が逆に結婚を切り出すのである。
 菅田の認識は正しい。恋愛感情を聖化するなと彼はいう。それは消失して当然であり、むしろ5年も続く方が異常である。家族になって子どもでもできれば役割分担が生じ、お互いの希少価値は高まるはずだ。分業で生じる信頼の方が実体があるだけに、恋愛の曖昧模糊なそれよりよほど信用に足る。
 これで結婚して完でも何の問題はない。しかし、この盛り上がりは一過性で、また冷めると有村架純も適切な返しをやる。その割に、その後、実際に別れるまでの3か月間、イチャイチャするからよくわからない。
 別れた後にもふたりが邂逅する場面が来る。そこでの彼らは、受け手が5年間苦楽を共にしてきた菅田と有村から演繹できないような軽い物腰である。かつて思慕した相手が全くの別人に見えてしまう、失恋の切なさが再現はされている。が、依然として釈然としない。何が原因なのか。
 職業人としてのわたしは菅田将暉の境遇に同情せざるをえない。ポップカルチャーとは違う仕事の世界にキラキラしてきたとき、有村はもっと好意的に接してもよかったのではないか。仕事で土日をつぶされても、よりつらいのは菅田の方であるから、有村にはよりソフトな言いようがあったのではないか。それができれば、有村の方がキラキラしてきたとき、菅田があれほど男の嫉妬に駆られることもなかったのでは。
 違和感が生じる。そのたびに予防線の存在が露わになる。作者は無理をしていると自覚している。無理をして何かを隠そうとしている。有村は何処から見てもドレッドノート級美女である。ところが、劇中では執拗に有村の美醜に言及しない。むしろドレッドノート級たるを否定にかかる場面すらある。しかし物質的事実は誤魔化しようがない。歯医者の受付に座っている有村の禍々しさ。わたしはこれを見たことがある。『海街diary』だ。信用金庫の窓口にいる長澤まさみである。
 相応しくない場所にいる美女の禍々しさ。これは何か。


 本作は女が男を捨てる話である。常によりを戻そうとするのは菅田の方である。就職活動が難航し菅田が甲斐性を失いかけると、有村は躊躇わず合コン会場に向かう。オダギリとは寝てしまう。
 事実を列挙すれば、有村が共感を失う。美醜への言及がタブー視されるのは、彼女の冷たさを緩和したいがためである。
 美女には美女なりのプレッシャーがある。美女は美女という高い下駄を履いている。もし彼女がその下駄に見合わない境遇に身を置くとしたら、世間は自分を何と思うだろうか。
 菅田は決して性能の低いオスではない。しかし非上場の営業マンと”有村架純”のつがいにはリアリティの欠片もないだろう。有村は菅田といるだけで、自分がどれだけ無能で怠け者か、世間に向かって公言することになるのだ。