「100万ドル債券盗難事件」『名探偵ポワロ』

 アガサ・クリスティだから『ポワロ』には変装ネタが多い。不審人物が出たら誰かの変装だろうで片付いてしまう。ミステリーとして見れば心許なくなる話数が多い。しかし『ポワロ』にはミステリーと並走してシリーズ全体を通底するもうひとつのモチーフがある。『ポワロ』はヘイスティングスがオスとして成熟していく物語でもある。これが変装ネタと関連を持つのだ。
 一作目の「スタイルズ荘の怪事件」はヘイスティングスの失恋話であった。援助を請われた女性にヘイスティングスは恋をする。娘は助けを引き出すために好意を示したのであって、それは取引に過ぎない。しかし男は好意を本気だと勘違いする。
 女性不信に陥った彼に対して「色々教えて上げますよ」とポワロは慰め、ヘイスティングスにはふたつの課題が設定されたと宣言する。探偵になることと成熟したオスになること。
 「二重の罪」は「スタイルズ荘」とともにオスの成熟問題の伏線を張る。
 旅先でヘイスティングスは娘と知り合う。彼女は高価な細密画を売りにいく途中だとバスの中で喧伝する。頭の弱い娘だとヘイスティングスは嗤う。細密画は案の定、盗まれてしまう。
 「二重の罪」は保険金詐欺のような話で、娘は詐欺団の一員であり盗難は計画である。犯行をポワロにばらされた娘は豹変して悪態をつく。ヘイスティングスは戸惑ってしまう。「二重の罪」単体で見れば、彼は事件の全容を未だ掴めず戸惑うように解せる。「100万ドル債券盗難事件」を経由するとこの戸惑に別の意味合いが出てくる。
 「100万ドル債券盗難事件」で船上のヘイスティングスが恋をしたのはブロンドの美女である。これもやはり変装ネタであり、ヘイスティングスはこの美女にかつて会っているが気づけない。事件の従犯である美女は主犯の看護婦に化けてヘイスティングスと会っていた。
 事件が解決してヘイスティングスはポワロに訴える。船の上では美女だった。髪型とメイクで冴えない看護婦になった。美女から不美人へ自在に往来できるのなら、どれを信じたらよいのか。人の変装や二面性が、美人を見たら聖化せずにはいられないオスの未熟さを抽出していたのである。
 「おめでとう、知恵がついてきた」とポワロは祝福する。
 メスにとってこの「おめでとう」は生理的に否応なく訪れるもので、それはそれで辛みはあるだろう。オスの成熟の辛さはこれとは別のところにあって、身を以て知る以外に成熟の術がない。
 ヘイスティングス以外にも未成熟なオスへの同情は観察される。
 「ABC殺人事件」は容疑者がコミュ障のオッサンであり、他人事ではないからわたしにとっては全編涙目である。コミュ障のオッサンが真犯人か否かで作者の価値観が露わになる類の話であり、事件の解決とともに、このオッサンの人生の辛みを救う方向へ筋は収斂するのである。


 ヘイスティングスの成熟話を見ていて不思議に思うことがある。アガサや橋田寿賀子山崎豊子といった人たちは、どうしてオスの成熟問題に関心を寄せるのか。そこで思い出されるのが『ラピュタ』のドーラである。母性を構成する何かがオスの成熟問題に関心を持たせる気がする。