柔いトロッコと自滅するナルシシズム

意志の倫理学――カントに学ぶ善への勇気 (シリーズ〈哲学への扉〉)武装勢力のリーダーを狩るべく、米軍はSEALsの偵察チームをアフガン東部の山岳地帯に派遣する。チームは山羊飼いと遭遇して選択を迫られる。もし山羊飼いを解放すれば、武装勢力に通報される恐れがある。しかし捕虜を取る余裕はない。山羊飼いは解放され結果、武装勢力の襲撃を受けたチームはほぼ壊滅。唯一の生存者は山羊飼いを解放した選択を悔やむ。殺すべきだったと。


レッドウイング作戦の顛末をトロッコ問題として捉えると、山羊飼いを殺害する選択肢には理が生じてくる。人類全体の不幸をより損なわない選択が功利主義的には正義に叶う。解放した決断を悔いるのは正しい。少数を犠牲にすることで多数が救われるからだ。が、本当にそれで地上の不幸の総量はより損なわれないのか。


事態が不測である方が恐怖は加増すると考えると、不幸の計量に異なる様相が出てくる。志願兵であるSEALs隊員は戦死のリスクを承知している。民間人である山羊飼いにはこれがない。個々人で見れば、死に際した民間人の方が恐怖の総和の加増に貢献するだろう。では、SEALs隊員らのマイルドな恐怖の合計と山羊使いの鋭角的な恐怖。どちらが恐怖の総和の加増に貢献しないのか。


功利主義を離れて考えてみる。


現場で選択を強いられた隊員たちが功利主義の正義を実行できなかったのは、それが直感的な正義に悖るからである。そもそも非戦闘員殺害は国際法違反である。帰還兵は山羊飼いを殺しておけばと悔やむ。では実際に殺してしまったら悔やまないのか。直感的正義に反する行いだから、やはり悔やむはずである。トロッコ問題に直面した時点ですでに何かが損なわれている。あとは、どちらの選択がより不幸にならないか、でしかない。


民間人を殺害する選択には、可能性ゆえの煩悶というべき別の問題がある。民間人を殺める選択肢のもたらしうる最も不正義な事態とは、殺害が無駄であった可能的未来である。山羊飼いを解放しても通報されることはなく、山羊飼いも隊員らも誰も死ぬことはなかった。民間人を殺害する選択肢を選ぶと、このハイリターンな未来の可否が宙に浮き、この可能性があり得たとする想定から生涯免れ得なくなる。解放する選択肢は想定を確定させるために、かかる煩悶をもたらさない。


帰還兵は事態をトロッコ問題として捕捉して悔やんだ。が、これはそもそもトロッコなのか。


沈黙の艦隊』の救命いかだで漂流し、伝染病患者を投棄するか否かトロッコ問題を迫られる人々は皆一様に消耗品然としたオッサンである。


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個体の性質を均一にして単純せねば、倫理の計量はむつかしい。


分岐した線路の先の一方に、十名ほどの消耗品のオッサン(=俺)がいる。片方には小松〇奈がいる。誰も迷わないだろう。オッサンを轢き殺すべきだ。正義は明らかで迷いはしないから倫理の課題にならない。レッドウイング作戦のケースはこれとは逆の意味でやはり課題になりがたい。


消耗品のオッサンと小松〇奈のケースでは転轍機すら要らなくなる。


消耗品のオッサンたるわたしが線路脇に佇んでいると、暴走するトロッコがやってくる。その先には小松〇奈が。


なぜわたしは線路脇にいたのだろうか。このわたしは撮り鉄か何かなのか。


脱線するが、母方の実家は線路脇に在していた。幼少のわたしは踏切が鳴るたびに二階のベランダに駆け上がり、485系が轟音を立てて眼下を過ぎる様に、キャッキャッとASD仕草丸出しでよろこんだものだ。


今日のわたしは某西武線を見下ろす部屋に居住している。電車の通過のたびに恍惚の眩暈を覚えるわたしがトロッコの暴走に直面する可能性は平均よりは高いのである。


その、なぜか線路脇にいたわたしは、小松〇奈を轢き殺そうとする暴走トロッコを前にして選択を迫られている。わたしは消耗品たるオッサンである。小松〇奈を前にすれば価値はない。ここにおいて倫理的には選択の余地はない。線路に飛び込んでトロッコに身を呈し脱線させるべきだ(トロッコは人体との衝突で脱線する設定である)。菅田〇暉の顔がちらついてムカつくが、段々と九郎義経が好きになってきたので許す。


言うまでもなく飛び込めるわけがない。先にあるのが小松だろうと核ボタンだろうと飛び込めたものではない。しかし、なぜできないのか。


ナルシシズムが足りないのだと思う。格好つけたい欲望がまだまだ足りていない。


パイドン』のソクラテスは、毒杯を持ってきた牢番の男に実務的な態度で接している。曰く、


「やあ、ご苦労、君はこれにくわしいはずだが、どうすればいいのかね?」


ソクラテスは牢番の説明を聴くと、差し出された杯を無造作に飲み干す。


わたしは慢性中二病である。この手のダンディズムにはキャーとしてしまう。


ナルシシズムの無目的性が具体化したひとつの形態がダンディズムである。メスの前でオスが格好をつけるのはメスの選好に適いたいためである。ナルシシズムでは、自分が自分に対して格好をつけ始める。自分が自分の選好に適いたいのである。


ナルシシズムにとって他人の目はむしろ格好つけの邪魔になる。他者の目はナルシシズムに客観視をもたらしかねない。自己愛が自覚されるならナルシシズムの高揚は失われる。新約や禅宗が善に匿名性を確保したがるのはこれと関連がある。


ソクラテスは泰然と死ぬ。俗っぽく見れば格好をつけたのだが、ダンディズムは内容をもたないために、かかる行いは異常事態となる。内容をもたないために時空にとらわれず、歴史的事象となり事跡が後世に伝わってしまう。


本来、人類のオスは性交を通じて自分の形質を次世代に伝えるために格好をつけるのである。ところがソクラテスは自分を滅ぼすことで格好をつけてしまう。


不運は来襲する。人類はトロッコの暴走を防ぐべく尽力すべきだが、それでもなおトロッコは暴走する。人が宇宙に実体化した瞬間、いつか必ず死ぬという究極のトロッコが解き放たれる。何たる浪費か。


いずれ終わりである。山羊飼いを殺そうと殺すまいと後悔の苦しみは残る。不運に至った時点で終わっている。だとしたらせめて、不運に抗って終わりたい。この宇宙の仕組みに一矢を報いたい。


不運に襲われた人は動物になる。


小松〇奈にトロッコが迫る。わたしは硬直して動けない。恐怖に際したわたしの身体は動物化し他律化して、わたしの制御を離れてしまった。わたしは自然に屈し人間を全うできなくなった。これでは宇宙的徒労である。


しかし、どんなに頑張ってもトロッコになんか飛び込めない。できると言ったらウソになる。不自然である。気障である。そもそも不自然を試みるのだから、不自然なのは当たり前である。


ロッコを前にした足のすくみは動物性の現われである。が、行動生態学者の見解によれば、トロッコに飛びこんで格好をつける自滅型のナルシシズムも、利他性の進化という動物性の現われである。格好つけの自滅に何らかの功績が付随すれば、遺された近親者の生存は有利になるはずだ。


利他性の進化は人類の行動あって実証されうるのか。当否は不明である。しかし彼らの知見によると、動物性の自覚にこそ意味がある、ということになる。自覚することで動物性を利用できるようになり、結果的に動物性から解放される。


ロッコに飛び込める。これには噓がある。嘘にしないために、ソクラテスその他大勢の、自然に抗い人間を全うした人々は何をしたのか。みずからの動物性を認知して、自分を人間的なふるまいに駆り立てるべく、その動物性を利用するのだ。動物性が介在するのなら、その行いはもはや嘘とは言えなくなるだろう。