ティム・パワーズ『アヌビスの門』

アヌビスの門〈上〉 (ハヤカワ文庫FT)
 新たな状況にキャラクターを放り込むことで物語を始めるとする。状況は劇中の人物にとっても受け手にとっても未知であるから、状況説明の営みが不自然とはならず、物語への導入が円滑になるだろう。
 この手の作劇には今一つの利点もある。新たな状況に対処せねばならないから、経営シミュレーションの、あるいは、RPG序盤のはがねのつるぎの法則の愉しみを叙述できる。
 では、新たな状況にどうやってキャラクターを直面させるか。ゾラのルーゴン・マッカール叢書では、パリに上京した身寄りなき田舎娘がどう生計を立てるかという状況がしばしば用いられる(『居酒屋』『ボヌール・デ・ダム百貨店』)。男に棄てられたとか両親との死別がキャラクターに生活を術を見出すよう迫るのである。『パリの胃袋』だと流刑地から脱走してパリに戻ってきた状況が設定される。
 キャラクターの記憶喪失も新たな状況を導出する典型的な手法だが、カウリスマキの『過去のない男』は記憶喪失を生計シミュレーションに組み合わせている。暴漢に襲われ記憶を失ったまま街角に放置された男に、これからどうやって生活するかという課題が否応なく生じる。受け手は事態に対応する男の甲斐性に惹かれるよう誘導されるのである。
 パワーズの『アヌビスの門』ではタイムトラベルの事故が状況対処のきっかけとなる。現代人の男が19世紀冒頭のロンドンに置き去りにされてしまい、生計の手段を見出さねばならなくなる。経営シミュレーションの愉しみが生じるのである。


 SFがジャンルの構造ゆえに背負っている作劇の課題のいくつかを『アヌビスの門』は活用している。SFに限らず、われわれはフィクションの中でしばしば、未開者との遭遇を自文明を肯定する自慰のオカズにしている。同時に、未開人を文明自慰のオカズにすることが倫理に悖るという自覚もある。この矛盾を克服するためにオカズが間接的に構築される必要が出てくる。『幼年期の終わり』は人類に高度文明と直面させる。一見してこれでは自慰にならないが、高度文明に人類の潜在力を戦かせることで、未開者との遭遇図式を逆転させておきながら文明の自慰を可能にしている。対して、これらの課題に対する受け手の自覚を利用してトリックを仕込んだのがイーガンの『白熱光』である。人類が未開種族の庇護を行っているように見せかけて、実際は人類が庇護下に置かれてたのである*1
 『アヌビスの門』は当初のところ、文明肯定の愉しみを発動させない。話が文明自慰であるとは気づかせないのである。主人公は雑技団的なエジプトの魔術師軍団に追われている。この主人公を扶助すべくロンドンの魔術師退治同胞団が立ちあがったとき、エジプトがオカズたる未開文明として作用し始める。あくまで当時の魔術師退治同胞団が主体となることでオカズは間接的に構築される。


 タイムトラベル物がループ物に近接することで、宿命とどう接するかという問題が提起される。『アヌビスの門』に含まれる今一つのSFの作劇固有の課題がそれである。この解法に当たっては本作はジャンル小説志向であり、宿命と向き合うのではなく、宿命を消失させる技法に傾斜している。ループする状況にありながら未来が予見不能になる事態が追及されている。過去の主人公は自分の記録を残している。それを参照して、過去に放り込まれた現代の自分が対処を行う。ところが記録には取捨選択がある。あるミッションをクリアするためには艱難を被らねばならない。ところがかかる艱難を正直に記録してしまえば、自分は尻込みするかもしれない。そこで未来の自分を誘導すべく過去の自分が情報を制御するのである。