グレッグ・イーガン『失われた大陸』

ビット・プレイヤー (ハヤカワ文庫SF)SFである必要がないと思うのだ。並行世界の中東から内戦を逃れた難民がやってくる。彼らは難民申請を出すも、収容所に何か月も留め置かれる。なぜ難民を並行世界から引っ張り出す必要があるのか。出自を並行世界に置いたら社会小説がスポイルされはしないか。


同年の『白熱光』とセットで検討すべき話だと思う。人類を未開文明とコンタクトさせることで、読者である人類を優越感で満たしてやるSFの邪なジャンルがある。『白熱光』がそうだ。『白熱光』は『君の名は。』の元ネタ(たぶん)であるが、未開種族と未来人類の話が並走する筋である。並走するのであるから、読者はふたつの話が同時代の事件だと考えてしまう。実際には時間差があって、未開人の場面は遠い過去の出来事である。人類が未開人に手を貸す話と思わせながら、過去の未開人の尽力に人類は恩恵を被っていたのだった。


未開人と遭遇させて優越感を覚えるフォーマットは、もはやそのままでは使えないといっていい。あからさまにやれば、自己愛丸見えで萎えるのである。人類賛歌をやりたければ工夫が要る。


社会小説を叙述するに、なぜわざわざ並行世界を仕込むのか。換言すれば、なぜ社会小説ではなく人類賛歌型のSFとして本作を認知してしまうのか。スマートフォンを所持するシリア難民に文明の優越を覚えるものなどいないだろう。並行世界の中東にはスマホがない。それどころかテレビもない。サッカーもない。車はある。ランクルがある。社会小説の体裁を保てなくなるほどには文明に差がない。優越感を覚えるくらいには差がある。社会小説と人類賛歌SFの両立を図っているのだ。邪に見れば、人類賛歌を正当化するために社会小説の体裁が使われている。並行世界は文明差のさじ加減のために要請されたのである。


『白熱光』では人類賛歌は誤誘導として使われた。本作は筋を社会小説と人類賛歌の間で往来させストレートな自惚れを回避している。総選挙が迫っている設定である。難民が収容所に留め置かれるのは保守政権の施策である。難民はリベラル政権への交代に希望を託す。


政治の準真空状態を反映して、難民は希望と絶望を往来する。締め付けが厳しくなれば話は社会小説となる。難民が文明的に扱われるようになれば読み手は優越感を被る。政権交代という前提そのものが文明的優越感の源泉であるから、安心して社会小説に走れるともいえる。オチでは保守政権が票を伸ばし、主人公がどん底に落ちる。直後、収容所をデモ隊に襲わせ文明仕草がすかさずフォローを入れるのであった。