地上を概略化する誘導 「父兄運動会の巻」『じゃりン子チエ』

じゃりン子チエ【新訂版】 : 7 (アクションコミックス) 父兄運動会でヨシ江がリレーのアンカーをやることになった。ヨシ江は元陸上で足が速い。テツよりも速い。しかしチエは母の運動能力を知らない。自分の運動能力はテツの遺伝だとチエは信じている。テツは妻の俊足を娘に知られるのを嫌がる。チエを遺伝的に独占できない事態が耐え難い。何よりもヨシ江に敵わなかったトラウマが蘇る。今でも好きで好きでたまらないあの女に。
 リレーの順序はマサル母→タカシ母→ヒラメ母→ヨシ江である。彼女らの走りには自身の子どもたちの造形が反映される。マサル母、ヒラメ母は想定通りだが、タカシ母が意外と早い。二人抜き去る。レイモンド副官の仁吉にしてもカルメラ弟にしても、はるき悦巳は副官に気を配る人である。
 ドンケツでバトンを渡されたヨシ江は全てを抜き去る。最後のコーナーに差し掛かるとヨシ江応援団が彼女を胴上げするべくトラックへ駆けだす。ところが拳骨だけはその場にとどまり、トラックの喧騒をにこやかに眺めている。拳骨は文士である。文士は自分が人類に精神的な責任を負っていると考えるから、喧騒に身を投じない。誰かが立ち止まって、人類の喜びと悲しみを記憶にとどめねばならない。

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 が、この文士の孤立は同時に相対化もされている。拳骨の手前で不貞腐れるテツである。人類からは見えないはずの文士の孤立はテツを媒体にして引き出されているのだ。ここでふたりは相補的な関係にある。テツの存在が拳骨を受け手の視野にもたらした。なぜか。拳骨に自分を発見させるためである。
 テツの孤独に気が付いた拳骨は声をかける。テツの台詞は彼のヨシ江への信頼を暴露してしまう。

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 太い前腕に隠れたテツの表情は窺えない。ただ、見ているものはわかる。テツの視線の向こうには秋の高い空がある。われわれは、テツの視線に誘導されて、喧騒する人類とそれを観測する文士と孤立するテツを客体化する視点に至るのである。

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