ラヴィ・ティドハー 『完璧な夏の日』

 劇中で人が人に恋をする。この際、劇中人物とともに受け手も相手に恋をせねば、展開されるイベントを自分のものとして受け取れなくなる。男を惹きつけた女の属性は受け手をも惹きつけねばらならない。このことは究極的には次なる問いを呼ぶ。何を以てしたら人は人に好意を抱くのか。いかなる属性が人の好意を呼び寄せるのか。孤独な夏休みを恐れる癇癪持ちの少女が岸壁の見知らぬ男に声をかけようと勇気を振り絞ったとき、あるいは盲目の少女が来るはずのない男を待ち続けたとき、わたしたちは爆発する。

 『紅の豚』でフィオが登場する件は、かくすれば人は美しくなるという揺るぎのない確信でわれわれを圧倒する。ピッコロ社に入ってきたポルコのトレーラーを認めたフィオは、倉庫の扉を開け、トレーラーの運転台に上がり、後進でそれを倉庫に入れて機体の梱包を解く。彼女の手際を叙述せずにはおかないガジェットとイベントの自然な配置に目を奪われるが、殊に倉庫の重い引き戸を開ける挙措とそれを捕捉する画面構成には、宮崎駿の審美観が凝縮している。カットを割って引き戸を押す彼女に寄れば、その手際は強調されるかもしれない。しかし宮崎駿はそういう下品をやらない。彼女は飽く迄オッサンらの後景でそれをやる。ポルコとピッコロの対話という情報展開をこなしながら同時にフィオの機能性を伝達する叙述の経済効率が追求される。しかもフィオが後景に退くからこそ、そこに目が行ってしまうのである。
 もはや性癖といっていい、ヒロインの手際の良さへの執着には、プラトンが『パイドン』で描くソクラテスのような、あるいはプルタルコスの小カトーのような、道徳教材のごときあざとさすらある。何を以て人を惹かせるのか。これには、かくあるべしという語り手の美意識の醸成が関わってくる。

 『完璧な夏の日』を読むと、映画化された『裏切りのサーカス』がいかに甚大な感化を各方面にもたらしたか、よくわかる。『完璧な夏の日』はビル・ヘイドンとジム・プリドーの変奏であり、ボーイズ・ラヴはオブリヴィオン(配役マーク・ストロング)が一方的にフォッグ(同コリン・ファース)へ好意を寄せる形で設定されている。フォッグは異性愛者でクララという少女の尻を追っている。このクララの造形が問題で、人物像の情報量が乏しいがゆえに、受け手をも惹きつけ得る固有の属性が構成されていない。結果、女の固有の属性ではなく不幸な状況がフォッグの気を惹いたかのように見えてしまう。フォッグの気をオブリヴィオンから逸らすこととで、オブリヴィオンの痛ましさを増幅する手段にしかなっていないのだ。