『ハッピー・デス・デイ』 Happy Death Day (2017)

共感のためにまず誰かを憎まなければならない。キャンパスを割拠する諸文化圏はことごとく揶揄の対象だが、憎悪の中心にあるのは全てを見下すソロリティであり、そこに属するヒロイン自身である。しかしこのアバズレはヒロインであり、憎むわけにはいかない。彼女の苛立ちは理解されるべきだ。憎まれるのは、カーストの棲み分けを把握できない越境者の無能である。人の機能性の有無を取っ掛かりにして、感情が普遍化されようとする。


女から他人を蔑む余裕を奪うのはループする同じ一日である。締め切りが人から個性を剥奪し、女は機能的な反応しかできなくなる。感情を普遍化した機能性が亢進し彼女の行動を乗っ取る。出てくるのは蔑みよりもよほどましな態度である。蔑みをやれば相手も相応の反応をするしかない。機能的にふるまえば、その切迫に感応した相手から機能的な応対を期待できるだろう。機能的対応とは良心の別称である。


ループに翻弄される女は社会実験の被験体だ。同じ一日が繰り返す。ヒロインは態度を変えて同じ事象に臨む。比較によって自分の機嫌が周りに及ぼす影響力が測定される。事は個人の事情を越えて社会化するべきである。感化の測定が社会化の一経路となる。


いま一つの経路がループから外された第三者の介在である。事実上の原案である『グラウンドホッグデー』(1993)のビル・マーレイはひとりでループと対峙した。本作のヒロインは協力者の青年を得る。作者の邪念を煮詰めたような映画オタである。


女の妄言は青年には信じがたい。しかし彼女の予言が青年の目前で次々と成就していく。ディザスタームービーの序盤に見られるような、妄言が実証される社会化のプロセスである。災厄の発端を発見したが誰も信じてくれない、あのフラストレーションである。


マーレイには含まれなかった社会化の経路は、第一の経路である善の発火を激甚化する。ループによる比較検討で自分の感化力を知ったマーレイには善が発症する。女も同じ段取りを踏むが、そこに青年の介在がある。


ヴィランに襲われたヒロインに助太刀した青年は落命する。彼女は悲嘆しつつヴィランを追い詰めるが、とどめを刺す前に感づく。このままヴィランを葬りループを完結させたら、青年のいない明日を迎えてしまう。


ここにおいて試されるのは受け手自身である。青年の人生に気をやれなければ、手前の善性はこのアバズレにも劣るのである。しかもスリラーの場面だけに多くの受け手は青年の安否を見過ごしてしまうと思われる。


受け手に身をもって体感される分、それは発症というよりも発火である。徐々に善を育んだマーレイに比して、ヒロインの善は突発的でその発火点を特定できる。


とどめを刺さずヴィランを放置したヒロインは鐘楼を駆け上る。次カットでヴィランがヒロインを見送る。視点がヒロインからヴィランへ引き渡された。ヒロインとヴィランの力関係が逆転した瞬間であり、善の発火点である。


ループの序盤で絶望したマーレイは無限の地獄から逃れるべく縊死を試みた。ヒロインが楼上でやるのはこのアンチテーゼである。青年を救うべくループを続けるために、彼女は縊死を決行する。


マーレイの善には発症に過程がある。その社会的波及の有様と幸福感はマイルドである。ヒロインの善は発症ではなく出現が特定された発火であるために、善の社会的波及と幸福感は発作的となる。第三者の存在がここでも善の発現に絡み引き立ててくる。翌朝、目覚めたヒロインが青年を見るや、キラキラしながらむしゃぶりつくのである。恋が人を善人にする機序がまぎれ込むのだ。