オクテイヴィア・E・バトラー 『血を分けた子ども』

血を分けた子ども状況がわからない。少年の家族とメスのエイリアンが数十年に渡り交流している。異星人は少年の健康にやたらと気をやる。少年にベタベタする彼女は母の警戒を呼んでいる。パターナルな異星人の印象はよろしくない。


世界観はイシグロの『わたしを離さないで』に類する。人間は托卵のために飼われている。托卵は複数回に及び孵化のたびに切り開かれる。


『離さないで』は臓器移植のためにクローンの人間が作成される設定である。次々と臓器を奪われるクローンたちを死病の罹患者に見立てた難病劇である。


『離さないで』の設定には不審が多々ある。クローンといえども人と同等の意識があり、やってることは人権侵害にほかならない。これが合法であるのなら、難病劇を成立させる死生観が発達するのか疑問である。技術的にも納得がいかない。人間のクローンが作れてなぜ臓器は駄目なのか。


『血を分けた子ども』にも技術的な不審がある。従来の宿主動物は使えなくなった。やむを得ず人に托卵する設定である。人とコンタクトできる異星人である。技術的解決の余地を思わされてしまう。


おそらく作者も瑕疵に気づいているのだろう。別作であるが『夕方と、朝と、夜と』は遺伝病の話である。登場人物が技術的解決の可能性に言及する。


ただ、『子ども』の結末には『離さないで』の人権問題の不備を繕うアイデアが出てくる。異星人とスキンシップするあまり、少年には恋愛感情が芽生えていたのだった。


托卵する異星人への嫌悪感は否めないから、恋愛感情自体は納得がいかない。技術的解決のメタな可能性も恋愛感情のもっともらしさを損なう。しかし嫌悪があるからこそ、少年の恋心が不可解だからこそ、DV男の虜になる女性の心理に話は肉薄している。


次作の『夕方と、朝と、夜と』は不可解な恋心の問題を引き継ぐ。


この話も最初は設定が受容し難い。致死性の遺伝病がある。発症するとバーサーカーになる。なぜこの病は淘汰されないのか。カトリックだから中絶を嫌がったと苦しい説明がある。が、淘汰の謎は自由意志問題のきっかけにすぎない。


発症者は特定個人のフェロモンに感応して狂戦士化を免れ得る。代わりに自由意志を失う。失うからこそ強烈な創造性を発揮して淘汰圧に抗している。


未発症の青年は意志の喪失をキモがるが、彼自身も恋人であるヒロインのフェロモンにすでに感応している。見初めたのではない。フェロモンに感応した結果にすぎないのだ。自由意志の話題が恋愛と絡み、DV男の感化力を変奏している。