ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア 『あまたの星、宝冠のごとく』

あまたの星、宝冠のごとく (ハヤカワ文庫SF)

 自分の将来を予見することはできる。しかしそれは憑依のようなもので、我に返ると予見の内容が当人の記憶から消えてしまう(「もどれ、過去へもどれ」)。作中でも言及される通り、『スキャナー・ダークリー』のような肉体の記憶に依存する類型であって、忘れたとしても何らかの残滓が当人を突き動かすはずである。ただ、ここで『スキャナー』を想起してしまうことは予断の醸成する。本作も『スキャナー』も記憶が希薄になることで自由意志と偶然が接近する。後者の場合、希薄になった意識を駆り立てるのは肉体だ。前者だとこの因果がやや捻じれる。未来を予見した女はその内容を忘れたまま人生を再開させる。ところがここから未来が分岐してしまう。女は知らないままに予見と異なる人生を歩んでしまう。ここにあって記憶の余韻は、受け手であるわれわれが分岐を観測しているという事実によってアイロニカルに再構成されている。記憶の残滓が未来を分岐させるのではなく、分岐するからこそ余韻が感ぜられるのである。

 「死のさなかにも生きてあり」でも、タイトルからして怪しげなように、定石は外される。予断の醸成でベタな結末を予見させないように誘導が行われる。人生に倦怠する余り自裁した男は煉獄に放り込まれる。ところがそこで彼は、仮想空間にコピーされた人格のような扱いとなり、カテゴリーに備わる期待が充足されるのだが、これがやはりジャンル逸脱の踏み台になる。仮想空間であるからほしいものは男の手に入る。そこで召還されるのが、若い頃、飼っていたラブラドールなのである。つまり、これは自己憐憫と郷愁を結合させる、藤枝静夫の『一家団欒』ような老人小説の定型であって、憐憫の醸成に愛玩動物の哀れが利用されたのであった。