『あのこは貴族』(2021)

これはタイトルがミスリードしている。冒頭で人々が会食している。彼らの挙措には違和感がある。あまり貴族していない。彼らが開業医の一家だとわかって事態が判然となる。貴族ではない。典型的な中産階級なのだ。


ムギムギと水原希子が階級をまたいで通じ合うように見えるが、彼女たちはともに中産階級だろう。収入差はあれど水原家は子女を慶應に送り出した。水原父や弟の庶民感を戯画なまでに誇張するのは、無理やり階級差を設定したいがためである。同じ階級だから話が通じ合うのは当たり前なのだ。


このお話は人間の戯画化について容赦がない。自階級外の人間は全くのマンガとして扱われる。米国帰りの自閉症の医師。居酒屋の関西人。まるで話が通じない。極めつけが高良健吾である。好男子すぎてサイコに見えてしまう。しかし彼はサイコではない。


作者も演出家もムギムギ&水原と同様に中産階級の子弟である。ムギムギを貴族と勘違いするほどに貴族のことがわからない。貴族たる高良の思考原理がわからない。描写がサイコじみるのである。


この物語はメリトクラシー賛歌である。作者は自階級の徳目を訴える。作者の自負は、幼稚舎上がりを異物視する水原の顔によく出ている。彼女にとって彼らは足し算もできない連中である。


作者の意図通りムギムギを貴族だと見なせば、彼女を中産階級の徳目に染めることで、メリトクラシー賛歌は達せられた。が、実際はムギムギは中産階級であるから、本分に目覚めたというべきだろう。然るべき場所に至りムギムギは満ち足りたのである。


見合い相手の最難関、ヤッピー男をここで思い返してよい。作中最強のメリトクラシーの権化たるこの男は、ムギムギが「家事手伝い」だと知ると露骨に蔑む。彼は作者の分身なのだ。


他階級への蔑視を隠さない一方で、ムギムギがキラキラしてくる過程には、他階級を出汁にしない創作の美点がある。水原自身がメリトクラシーに立ち戻ることで、ムギムギも感化を受ける。終盤のコンサートもベタの活用に秀でている。音楽の及ぼす生化学の作用が階級の溝を埋めていく。


が、問題は残るのだ。他階級を参照せずに自律してキラキラするから、他階級がエイリアンのまま止め置かれてしまう。復縁は生化学の悪戯に依存しているから、作用がなくなればまた破綻しかねない。


高良の内面を知る必要がある。中産階級賛歌で終わるにせよ、他階級の内面に踏み込んで中産階級を相対化する手続きを経ねばならぬ。キルケゴールの言葉を借りれば、自分と対立するものを含まねば私的なおしゃべりになってしまう。相対化を経ねば自賛に終始してしまう。


アディーチェの『アメリカーナ』では、医師であるヒロインの叔母は“将軍”の愛人たちを蔑む。ところが修羅場に至ると叔母は無力である。愛人たちの現場力に救われる。


貴族の思考原理を知らねばならない。しかし貴族は絶滅して久しい。演出家も作者も貴族がわからない。彼らは何を考えているのか。中産階級メリトクラシーに依拠するならば、貴族の徳目とは何なのか。
(つづく)