ガッサーン・カナファーニー 『太陽の男たち』

 『ザ・ウォール』(2017)は密室劇に近い。イラクの砂漠で米軍の狙撃手(アーロン・テイラー=ジョンソン)がイラク人の狙撃手と壁を挟んで対峙する。無線を通じて相手は挑発を繰り返す。米国製作なので話はアーロンの視点である。しかし、アメリカとイラクという国籍だけの比較になると、より大きな課題は後者にある。アーロンに感情移入するよう叙述が行われるが、このままでは乗れない。アメリカとイラクの対比に新たな解釈が持ち込まれることになるのだ。
 中盤以降、相手の挑発に乗せられて、アーロンは自分の出自に呪いの声を上げる。白人貧困層である彼はオスとしての自信を失っている。対するイラクの狙撃手はインテリである。アーロンを守る物理的な壁が、今度は克服すべき階級の壁として立ちはだかり、事態がオスの甲斐性問題として解釈され普遍化する。こうなると話は他人事ではなくなり、アーロンの顛末が悔しくもなるのである。


ハイファに戻って/太陽の男たち (河出文庫) カナファーニーのこの短編(『太陽の男たち』)にも同じ課題と解決が見受けられる。
 当事者である作者にはパレスチナの難民問題は我が事である。だが、非アラビア語話者がこれを我が事とできるかどうか。むしろ我が事とできるのなら、よほどの厚顔だと思うのだが、それはともかく、アラビア語圏を越えて事態の痛切さを届けるには何らかの普遍化が求められるだろう。用いられたのはやはりオスの甲斐性問題である。これは父親たちの話であって、難民となって失業した彼らのストレスに言及する。オスとしての自信をはく奪される、あの世にもおぞましいストレスを通して、難民の物語を構成するのである。しかも事態の普遍化には更なる尾ひれがつく。


 山中貞雄の『人情紙風船』(1937)は、これもまたオスの甲斐性を話題としている。浪人の河原崎長十郎無能の人である。仕官を試みるもうまくいかない。妻の山岸しづ江に就活の首尾を問われると、大丈夫だとにこやかに誤魔化すばかりである。
 この話は、長十郎の不甲斐なさに迫りすぎるあまり、無能さに対して人間が生得的に感じてしまういら立ちにアプローチしてしまう。共感よりもイライラが先立ち、悲劇の顛末が、無能という悪が退治されたという誤った浄化を導いてしまうのだ。
 『太陽の男たち』も同様である。甲斐性をなくした男たちがいら立ちを誘うようになる。彼らは職を求めてクウェート密入国を試み遭難する。その破滅のありさまが曲芸的であるゆえに、無能の撲滅というただでさえ背徳的な浄化に喜劇の明るさが付帯するのである。