『スーパーの女』(1996)

 伊丹十三の後期三部作『ミンボー』『スーパー』『マルタイ』が試みたのは近代の捕捉であった。これらの物語は近代の宿った心の状態を勇気と定義する。ヤクザとカルトという非近代の襲来を受けた経理マンと女優は、自分の奥底に眠る勇気を発見したのだった。
 『ミンボー』『マルタイ』と比べると『スーパー』の非近代は日常ベースである。暴力というわかりやすい形を取らない。だからこそ、近代の捕捉が際立ってくる。作者に問われるのは、襲来する未近代が人々の勇気を駆り立てる状況の形成である。『スーパー』では不正の発見が人々の勇気を試すことになる。精肉のリパック問題である。
 精肉部を仕切る職人の六平直政はパート連にリパックを強いる。パートさんにはこの不正が耐えがたいが六平が怖い。ここに宮本信子が介入する。
 宮本は津川雅彦のスーパーに近代をもたらすべく招致された。この人は超人だから憚ることなくミーティングでリパックを告発する。その存否をめぐって決を採ることになるが、手を上げられるのは宮本一派だけである。精肉のパートさんらは六平を恐れる。しかし、近代が出現する瞬間はやってくる。パートさんの一人が恐る恐る手を上げるのだ。近代は何処にあるのか。それは一人一人の心の中に宿ると物語は考えるのである。
 終盤では、伊東四朗の近代未満スーパーが津川スーパーの買収を試みる展開となる。伊東と共謀した六平がパートさんらを脅し、伊東四朗スーパーに引き抜かれるよう迫る。逡巡する人々を前にして宮本は咆哮する。「あんな近代未満に負けてたまるか」と。人々の勇気がまたしても試され、リパックの場面が再演されるのである。
 趣は少々異なるが、西部劇っぽいとわたしは思った。おそらく作者にもそれが念頭にあるのではないか。ここの宮本にはハイヌーンのゲイリー・クーパーや3:10 to Yuma のクリスチャン・ベールのような、保安官の意気地ともいうべき心性が投影されている。そう思い至ると、何が作者を近代への執着に駆り立てたか、正体が見えてくる。敗戦のトラウマである。
 かつての日本語圏は何に負けたのか。どうすれば今度の戦争で負けないのか。『スーパーの女』は答えるのだ。日本語圏が屈した物量を産んだのは、ゲイリー・クーパークリスチャン・ベールに宿っていた思考の様式であると。