聖人の外部性 『おしん完結編』

 学生の時分に総集編で見た『おしん』の完結編は波乱のない消化試合だった。今回、本編で完結編を見たところ全く印象がかわった。田中好子の紛れなきアイドルドラマであった。完結編の好子は中学のときに思慕をしたクラスメイトBさんに似ている。彼女が画面に映るたびに鼻の下を伸ばさざるを得ないのだ。
 田中の演じる初子は一種の聖人である。完結編の目論見は、この初子から聖人の厚顔さを抽出することにある。聖人であることが他人への当てつけとなるのであり、初子自身が聖人のこの外部効果を発見するのである。
 筋を見ていこう。
 田倉家に嫁に来た道子(田中美佐子)は箱入りで家事ができない我儘娘である。苦労人おしんはこれが気に喰わないが、聖人である初子は事あるごとに道子をかばう。家事に不慣れな道子を陰日向に支援する。しかし道子はこれを小姑の嫌がらせと捉える。初子が聖人であろうとするほど、自分が結果的に貶められてしまう。
 道子は実父の長門裕之に初子のことを愚痴る。わたしは気も狂わんばかりになるのだが、田中美佐子もカワイイので困じる。それはともかく、長門裕之は聡明な人で聖人の外部効果に感づく。初子が道子を甘やかすために、道子がいつまでも初子に依存して主婦の気概に目覚めず、おしんの不興を買ってしまう。この構図に気づく。
 長門は初子に縁談を持ってくる。彼女を田倉の家から引き離そうとする。ところが縁談の相手が妻に先立たれた50半ば男なのである。
 初子はこれを受ける。田倉の重労働からやっと解放されると強がって晴れ晴れとする。初子自身、自分の存在が道子のためになっていないと自覚していた。聖人である彼女は自己犠牲をいとわない。まさに鬼のような橋田壽賀子脚本。
 しかし、強がる初子に飛んだおしんの平手打ちが、初子の聖人の面の皮を破るである。初子はおしんの胸の中で号泣する。50男に嫁ぎたくない。ずっとここにいたい。おしんの傍にいたい。
 おしんは慰める。いつかきっと、いい人に巡り合える。
 いったいどれだけの男ども(含ワシ)が画面の前で雄叫びをあげたことだろうか。「ここにいるぞ!」と。
 わかってはいるのである。わたしのオスとしての価値はその50男に及びもつくまい。しかし、他人を尊く思えると自分までも尊く思えてしまう、あの恋の幻視に突き動かされ、人は叫ばざるを得ないのである。